報恩講 結願 28日 2017年1月28日

 報恩講の全日程は一応今日でおしまい。あとは次の日の「お浚い」をのこすのみです。

狐野先生は来年もおいでいただく予定です。

最終日の日中は法要終了後、すべての参詣者にお斎がふるまわれます。その後はすべての片付けとお華束の解体と華のたて代えが行われ、すべての荘厳が1日がかりで何もなかったかのような平常の荘厳にきれいに戻されます。

全地区の講頭が一同に集まっての作業。この日が法要の参詣としては一番多い日です。

 

 

報恩講 大逮夜(入楽) 2017年1月27日

逮夜の法座は今晩が最終。

大逮夜はこの一週間で一番賑々しく勤められます。

今晩は楽人が5人ほど、教務所員や組内のお寺からもお坊さん方が何名か来られます。

一般的に「雅楽」という音楽に「お寺」をイメージする人は少ないのではないかと思います。

私などは、神社や貴族たちが優雅に宮廷で蹴鞠を蹴って遊んでいそうなイメージです。しかし、そもそも雅楽は仏教音楽として発展し、シルクロードを伝わって日本に伝来したものだそうで、荘厳な浄土世界をきらびやかな内陣装飾と聴覚的な音楽、それから嗅覚として香を炊き、五感でもって浄土世界を観ずるものとして発展してと聞いています。

たとえば教会だとパイプオルガンが有名でしょうし、それらはすべて「壮大な世界」を音や装飾などによって様々な工夫が凝らされてて表現されてきたのだろうと想像します。

たとえば雅楽の場合でも、東洋独特の音感やリズムによってアジアのシルクロードの幻想的な風景を想像させたり、聴く人のどこか懐かしさのような感じもあるのではないかと思います。

話がそれましたので

 

寒い時期の法要ですが、この大逮夜の参詣は年々増えつつあるようです。

始まりは7:30から。法要の後には参詣者全員に「お通夜」ということで、赤飯などの「おやつ」が振る舞われます。終了は少し押しますが9:30の予定です。どうぞご参詣ください。

 

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報恩講 6日目 2017年1月26日

過ぎてみれば早いものであっという間の一週間のような気がします。

しかし、あと二日。油断すると痛い目にあいます。

 

夜座から孤野先生がお話しされます。

京都の全寮制の学校、大谷専修学院の院長を務めていらっしゃいます。

前院長の竹中智秀先生が亡くなられ、その後を学院長として引き続がれました。大谷専修学院はまさに念仏の道場と呼ぶにふさわしい学校で、全寮制で一年かけて親鸞聖人の教えを学ぶところです。このところ新学舎が完成し、新学舎での生活が始まっているそうです。

 

この身はいまはとしきわまりてそうらえば、さだめてさきだちて往生しそうらわんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。

このことばを先に唱えられ、ご法話を始められ、浄土に往生ということについて先生ご自身が昨今感じていらっしゃることを、平易に丁寧にお話くださいました。

「人間、やはり年をとるとそのような気持ちになるものですね。若い血気盛んな頃はこんな事無かったんですけれども、この歳になるとやっぱりお浄土が近くなったというんでようか。死にゆく我が身ということが気になります。」


倶会一処(くえいっしょ)

寺の建ち並んでいる寺町を歩いていると、境内の墓地の墓石に「何々家先祖代々」や「何々家累代」と刻んだ場合が多いが、墓の正面に「南無阿弥陀仏」または「倶会一処」と書いてあれば、そこは浄土真宗の寺だとわかる。

 「倶会一処」は浄土の徳をあらわす。『阿弥陀経(小経)』に念仏往生を勧める釈尊の言葉として説かれる。

   舎利弗よ、この娑婆世界の苦を受けているものは、阿弥陀仏の極楽世界のすばらしいはたらきを聞いて、発願してその阿弥陀仏の国に生まれたいと願うべきだ。なぜかというと、阿弥陀仏の国は無量無数のよき師、よき友が待って迎え、みな共になかよく集まり一つになって出会うことができるからだ。

 この世の悲しみの一つに愛別離苦がある。どんなに愛おしい者であっても、いつかは別れなければならない。いのちある者の定めである。その身もだえするのは煩悩だということは十分わかっていても、それでもつらく悲しい。

 いのちの行方を問わずにはいられない煩悩具足の凡夫のために、釈尊は阿弥陀の本願を説き、念仏往生の道を勧めた。「倶(とも)に一処(いっしょ)に会(え)する」。

本願を信じ念仏申す中で、必ず浄土で再会すると示した。別れの悲しさを内にやさしくつつみ、顔を上げて今生のいのちを生きる姿勢を教えられるのである。

                 『大法輪』2015年12月号


 

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報恩講 中日 2017年1月25日

一週間の報恩講もようやく折り返し、今日は中日です。

寒くはありますが天気もよく参詣はまずまず。

しかし年々深刻な減少傾向が続き、ここ何年かで目に見える形で加速度的に進んでいます。先刻のお寺が様々な状況で同じ悩みを抱えているのは言うまでもないことなのでしょう。

そんな中でも、関心の深いご門徒さんは熱心に通われます。ありがたいことです。

 真宗門徒としては報恩講が一番大切にされてきた法要です。この一年で一番寒い時期に勤められる法要だけに、参詣の足も遠のくのも無理はないかと思います。しかし、これまで必ずお寺の法要に参詣を続けてこられたご門徒の数は平行線を保っているようです。お寺との関係が代々続いている家庭もありますし、新たに足を運ぶようになった方もおられます。ありがたいことです。よくよく考えれば、今の時代に一週間の法要にこれだけの参詣があるのもうれしく思います。

法要の心得として、『初・中・結』といわれています。「初・中・結」とは、初日と中日と結願(最終日)のことで、一番肝要で法王の儀式も重いものです。参詣されるご門徒の多くがリピーターで、その中の多くは初・中・結には参詣される方が多いようです。ちゃんと調べたわけではありませんが、顔ぶれを見るとそのように思います。

 

逮夜には御伝鈔拝読と絵解きがあります。始まりは7時半から始まり、終了は通常よりやや長くなって9:30の予定です。

今年の御伝鈔は下巻を拝読。聖人が越後に配流となり、そこで出逢った人々との触れ合いや様々なエピソードが語られます。その後、聖人ご往生後の本願寺の興隆までが語られています。今回はあらすじとタイトルを挿入したプロジェクターを導入して、参詣者が聞きながらおおよそのどのようなシーンなのかを考えながら理解できるように工夫をしてみました。

そのあとは内陣余間にて御伝鈔の絵解きが行われます。お話は役僧さんの三澤師です。

 

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報恩講 3日目 2017年1月24日

P1231351.jpg  まだ序の口ですが早くも少々疲れ気味。

 気合いを入れ直していきます。

 寒さは相変わらずで、準備期間を入れると今日で10日目。

 浄土真宗の要である三心「至心・信楽・欲生」という大事なところを解り易く丁寧 に詳しくお話くださっています。難しい仏法の言葉を易く説くにはそうとうの力量 がいるとおもいます。まして三心「至心・信楽・欲生」の浄土真宗の要の教えはを お話するのにはハードルが高いと感じている私にとっては、なんともありがたいお 話です。


  真実の教えに遇うとは、私を救おうとする如来のお心に出遇うということです。▶️私たちは真実の心でもって、道を歩むことが救いなのですが、実は我々人間には真実の心はありません。しかも真実を受け止ようとする心も持ち合わせていないんです。さらに真実を真実としてみることのできる心も持ち合わせてうないんです。そのような自分には気づかないままでいるので、いつでも自分の心は真実だと思って疑わないんです。このような心の状態を一つの例えとして言えば、「これが真実というものです」と仏さまの方から近寄ってきたとしても「私にはもうすでに真実の心を持っているからいらないよ。」と断わるようなものです。

だから我々人間は自分を真実に向けることが出来ないのです。仏さまはそのような私たちの我の心で一杯の有様をよくよく見抜き、その我の心で一杯の私のこころを克服させる用きを与えてくださるのです。それが『至心・信 楽・欲生』という三つの仏さまの心なのです。

「至心」は不実さを受け止めない心を受け止めさせる心。

「信楽」は真実をそのまま受け止められる心へ転じさせる心。

「欲生」は真実に目覚めたいという心へ転じさせる仏さまの心。

▶️真実は不実なものを見けると、必ずはたらきかけ、そのものを真実に目覚めさせるようはたらくのです。そういうものものを「真実」というのです。ですから、仏さまは我の心で満ちた私の心を照らしだす「光」と表現されているのです。

 

 

報恩講 2日目 2017年1月23日

二日目

晨朝7:00      お勤めのみ(正信偈/御文)

日中10:00〜12:00 お勤め(正信偈/和讃・法話)

逮夜19:30〜21:00 お勤め(正信偈/和讃・法話)

日中から岡本先生のご法話です。

 

先生はかれこれ10年間毎年遠く島根から通っていただいています。

前住職から引き続いておいでいただいてますので、徳泉寺さまには足掛け15年以上。とにかく長いおつきあい、お世話になっております。

とてもありがたいことだと思います。

毎回、親鸞聖人の教え、浄土真実の教えをいただいていますが、聞くたびに「そうなのか」とか、「ああ、そうだった」「そうだよな」と感じ入ります。

念仏を申すということは、そこに身を据えて初めてわかる。頷かされる我が身がいるということを再発見することではないでしょうか。

 

 

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報恩講 初日。始まりました!

初日はやっぱり緊張します。

この緊張感がいいですね。

初日は参詣の人も新鮮な気持ちでお参りされてるようです。

法要は晨朝(お朝事)から始まります。

 

日中は登高座があって報恩講式という覚如上人が書かれた報恩講のための表白文が読まれます。これまた格調高く、当時の本願寺がどのように報恩講をお勤めしていたのかがうかがえるように思います。

親鸞聖人とは、我々真宗門徒にとってどのような存在であるのかが明確に記されています。

この報恩講式は、当時の衰退していた本願寺をなんとか立て直そうと立ち上がった覚如上人の覚悟の一端を見ることができます。今となっては本願寺の聖人といわれていることが批判されることもありますが、今日の真宗の教えが蓮如上人を生み出し、ここまで広がったことを考えると批判だするだけではすまないこともあるように思います。歴史の一端としてみるならば、そのようなことも見据えた上での本願寺の歴史なのでしょか。


 

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報恩講準備 2017年1月19日

今日から準備の本丸に取り掛かります。いよいよ浜田郷と浦郷の総勢60名での餅つきとお華束(おけそく)作りが朝早くから始まりました。

まず餅を蒸籠で蒸します。すべて蒸すと3斗7升。

 

楽をしてはいけません。苦しみます。

大変なことは、大切なこと。

大変さや苦労が人を育てる。

 

 餅つきやお華束は、あえて昔ながらの製法で行います。集まっていただくご門徒さん方にはいつもお世話いただいてます。

これだけの人の手によって親鸞聖人の御仏事をお勤めするのは大変なことです。

その大変なことの中に御恩を見出すのが真宗門徒のこころではないかとも感じます。

 現代はなんでも機械化や人の手を借りなくとも楽に何でもできる時代だけに人々がつながりを失っている時代ともいわれています。しかし、お寺というところは人々の支えがなければ成り立たない場所です。餅つきや仏具のお磨き一つをとっても「機械で磨けばいいのではないですか」とか「今は昔とは違って餅は食べなくなったので、こんなに沢山餅をついても、家には家族が少ないしほかに食べるものがあって喜んで餅を食べる人もいない」とか「お餅の飾りもブロックみたいな積み重ねる道具があるから、それを使えばこんな大変なことをしなくともいいんじゃないですか」という意見をいただくこともあります。

しかし、それをしてしまうとお寺に集まるキッカケがなくなってしまいます。

これがなくなればお寺で法要が勤まることも知らない人が増えますし、自分たちのお寺であるという気概もなくなっていきます。ただでさえ衰退のしつつある時代にお寺が便利さや快適さだけを求めると、つながりが切れていきます。

 

 

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蒸した餅を棒で伸ばします。餅がさめる前に素早く伸ばさないと伸ばしてもすぐ元の形に戻ってしまい、均等に伸ばすことができなくなります。まさにスピード勝負です。見ているよりも案外に大変です。

 

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棒で伸ばした餅を40人くらいで大小合わせて5700個ほどくりぬいていきます。これでも内陣の荘厳の関係で随分と最近は数は少なくなりました。かつてはお華束の数がもっと多かったですから、以前より1000個ほど減っているのではないでしょうか。

ここではかなりシステマチックで誰でもできるようになっています。

 

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お華束つくりは、それぞれのお寺で様々な方法で作られているようですが、萬行寺の方法ではくり抜く分、無駄も多くでます。しかし、正確さと効率を考えるとこの方法が一番いいようです。それぞれの道具はご門徒の家具職人さんが作ってくださいました。これらはお寺の大切な財産です。

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一つ一つ串にさしていきます。報恩講は通常の作法では「須弥盛り華束」が基本ですが、ここでは「杉盛り華束」を作ります。

 

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おおよそ形が出来上がりました。

餅が乾燥する前に手早く刺していかなければ、形を整えるのが大変になってきます。

かといって、早く刺しても柔らかい分、串に刺した餅が重みで下がってしまい隙間が空いたりします。タイミングと速さが勝負です。また、その日の温度なども出来栄えにかかわってきます。

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みかんの産地、長与町の塩床から毎年みかんを志でいただき盛ります。形は完成。あとは色付けをします。

 

 

 

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報恩講準備初日 2017年1月15日

報恩講の準備が本格的に始まります。初日は各地区の講頭(こうがしら)と呼ばれる地区の役員が集まり、報恩講をお勤めするにあたり、諸役や当番などの確認事項を行い、案内状を配っていただきます。

今日は互礼会。新年の初顔合わせということもあり、一杯飲みながら語りあいます。
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報恩講は親鸞聖人の祥月命日を機縁として浄土真宗に出遇う御仏事ですが、私たちにとって親鸞聖人という存在はどのようなものであるのか、または親鸞聖人のご一生が、現代を生きる我々にとってどのような意味を持つのでしょうか。その問いを訪ね、浄土真宗に真向かいになる仏事出ると言えるのではないかと思います。

法要はお寺で勤めてお寺でするもの。あるいはお寺の人がご門徒に案内して行うものというイメージがある人もあるかもしれません。

しかし、真宗の仏事は「報恩」という精神で持って勤められ、そこに関係する一人ひとりが私にかけられた恩に報いていくものが仏事なのです。そう考えると、報恩講は自分たち門徒一人ひとりが報恩講をつとめるということであるということに他なりません。つまり、そこに所属するすべての門徒やその過程を構成する一人ひとりがこの一週間を報恩の仏事として生活することを報恩講というのだと言えるのではないでしょうか。そのことから自分の所属しているお寺の報恩講が勤まる時、家庭に打敷をかけて五具足の荘厳をするのが正式であると言えます。

荘厳やもろもろの作法は、教えが形となったものであり、形として現れた教えであるとも言えます。そういうことから考えてみると、仏事をお勤めするときの作法にかなった荘厳は、私たちに大切なことを教えてくださいます。

これから、門徒と一緒に報恩講をお勤めいたしますが、この仏事が「一人(いちにん)の報恩講である」とともに、報恩ということを深く等ご縁となればいいのではなかと感じています。

 

 

 

 

明日から報恩講です。2017年1月14日

明日からいよいよ報恩講の準備が始まります。

皮切りは全地域の講頭が集まっての「新年互礼会」です。

総勢で51地区の長(講頭/こうがしら)が集まって明日からの準備で必要なことを確認します。

昔から各地域の役割分担が決まっていて、慣例に従って担当と当番を決めていきます。

こうして門徒一同で報恩講をお勤めします。

しかし、これもいつまでこの状態を保っていられるのか・・・・不安はつきません。