第8回 推進員の集い

     第8回 推進員についての協議会

 

  夏が終わり、夕涼みの季節とはいえ、まだまだ暑さが続きます。皆様、如何お過ごしでしょうか。

 

さて6回目の集いで、いつまでも「こうすればとか、ああすれば色々と話し合っていても、実行しなければ始まらないので、すべきことや出来ることは実行しよう」という心強い意見も上がり、実際にいくつかの試みを実行する運びとなりました。

 

 推進員の皆さんが主体の会で、推進員の皆さんの意見を汲み上げながらお寺を盛り上げていきたいと思います。推進しているという手応えを感じられるような会であってほしいと願いまし。忙しいとは思いますが、参加できない方は案内状に目を通していただくだけでも結構ですので、何卒よろしくお願いいたします。

 

今回は出席者が少なかったですが、有意義な会だったと思います。

仏法は有り難いものですが、それは学び続けていけばありがたくなるのではありません。あくまで学ぶ事と、聴聞は車の両輪のようなものです。どちらが欠けても成り立たない。仏法を学ぶことはとても大事なことですが、興味関心に陥ってしまいがちです。また学ばなくとも聞法だけしていればいいというのも良くないと思います。学ぶということは聞法であり、聞法することが学びそのものであるようにいただくことが大事ではないでしょうか。そこに「頭が下がるように聞く」という習慣を身につけることが大切だと思います。昨今は聞法する力が弱くなっているように感じます。それも聞法することや仏事を行う機会が減っていることに起因するように感じます。そこのところをどのように確保し、担保していくか・・・・・。どこまで出来るかわかりませんが、地道に続ける以外ないのではないかと思います。と言って黙って待っているのでは現状維持どころか先細です。もともと先細ですから攻めの姿勢は大事なのかもしれんません。以上が今日の感想です。

 

 

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寺報「徳風」第19号「聞法道場」(2013年『徳風』より)

親鸞聖人の御(おん)仏事をお勤めする

ごあいさつ

昨年の10月28日。京都の真宗本廟にある親鸞聖人の御真影の尊前にて31名の御遠忌お待ち受け記念旅行で上山したご門徒に見守られ、里雄康意宗務総長より現住職の退任、ならびに新任住職の就任を拝命いたしました。いよいよと迫った10月17日からの御遠忌法要初日に「継職法要」にて皆様に披露して、いよいよ新住職・新坊守としての歩みを始めることになります。それと同時に現住職と坊守は現職を退任し、『老院(ろういん)』(または『前住/ぜんじゅう』)と呼ばれ、坊守は『老坊守(おいぼうもり)』といわれる新たな任に就き、これまで通り念仏の教えを皆様にお取次していくこととなります。皆様におかれましては、何卒これからもご教授ご鞭撻の程、よろしくお願い致します。

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御遠忌法要をお勤めする意義

○御遠忌とは

50年ごとにお勤めする親鸞聖人の年忌法要です。50年に一度というとことは一生に一度の勝縁ですので、大切なご縁としたいものです。萬行寺での七百回御遠忌は昭和43年に勤まり、前新門さまにおいで頂いて帰敬式を実施しています。その後、この度の御遠忌を迎えるにあたって約50年かけて本堂・鐘楼堂・石垣の再建、庫裏・境内の整備などを行い、昨年は「御遠忌お待ち受け」として帰敬式と本山参詣を行いました。▼法要当日はお世話になった長崎教区第一組の寺院の御住職や若院さん、坊守さま、寺族、または萬行寺の各関係者なども臨席して聖人の御往生を偲び、祖徳を讃嘆しつつ皆様と共に法要を賑々しくお勤めいたしたいとおもっています。

○御遠忌 三つの課題

御遠忌とは、親鸞聖人をお迎えして聖人に真剣に向かい合い、教えとなって今現在説法している聖人に出遇う大切な法要です。▼750年の救済の歴史に参加するということ。それは私自身が教えに生きようと立ち上がることによって始まっていく。究極的に言えば念仏申そうと思い立つ心が興るとき、すでに救済の歴史に参加しているのです。その時、まさに真宗が生きてはたらく仏道となるのです。七百五十年間教えは人から人へと伝わり、その歴史の中にある人々の苦しみや悲しみが教えを求めさせる力となってきました。この救済の大事業に今を生きる私が参加するということです。▼親鸞聖人に向き合おうとしない私に聖人自らが、750年という時を超えて、御遠忌という形で私の前に立ち現われてくださる。私がいて御遠忌をお勤めするのではなく、親鸞聖人の方からやって来られる。そこで私の志が問われる。▼これまでの50年を踏まえつつ、これからの50年の歩みを歩み出す出発点となる法要。御遠忌を目標とするのではなく、御遠忌が新しい時代に歩み出していく出発点となる。お寺もご門徒も新たな気持ちで次の御遠忌に向かって新たな歩みを始める。それが御遠忌です。(釈大攝)

 

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