春の永代経法要のごあんない




永代経法要は真宗正依の経典である『浄土三部経』が読誦される大切な法要です。
みなさまお誘い合わせの上、参詣くださいますようご案内いたします。

1日目(日中)仏説無量寿経
2日目(日中)仏説観無量寿経
3日目(日中)仏説阿弥陀経

ご講師=(19日逮夜から)古田和弘先生(九州大谷短大名誉学長/大谷大学名誉教授)

逮夜の参詣が少いので、逮夜にもぜひご参詣ください。

ー参詣に必要なものー   
 肩衣/念珠(数珠)/声明集(勤行本)/昭和法要式(お経本)

  ※お経本や勤行本・肩衣など、お寺でも購入できます。

  平成28年 5月  真宗大谷派 亀水山 萬行寺


寺報『徳風』第22号 はちす

みすみす死ねない

人は生まれた以上「老病死」は免れられない。犬猫、草木にも老病死はある。だがそれを「苦」と感じるのは人間だけ。「死にたい」と感ずるのも、「死にたくない」と感ずるのも、人間である由縁である。▼もし、老病死に会いたくないというなら「生」じなければいい。答えは簡単であるが・・・・。『一切皆苦』そもそも「生まれる」ということは苦海を度することである。▼何年生きても「死にたくない」と思う。それは「真実に出会わないまま死ねない」という、我が身の内奥に蹲ったいのちの叫びである。この叫びに呼応しようとする心を「菩提心」といい、「求道心」とも「宗教心」ともいう。誰もが虚しさを抱えて終わるより、満足して死んで往く生き方がしたい。▼明日を夢みて今日を忘れ、浅き夢に酔った「夢幻の如くなる一期」と深く感ずる時期が「老苦」。思いの通りにいかないと感ずる「病苦」。そう教えてくださるのが「死苦」であり、その苦を抱えた「生」である。生きる準備に追われて虚しく人生が終わる。そんな一生は誰も御免である。▼『後生の一大事』とは、虚しさを超えて生きる道を尋ねることである。蓮如上人は「はやくこころにかけよ」と言われる。そのことに頷けると、自然に手があわさる。このような心象風景を「浄土」と呼ぶ。この時の念仏は「仏恩報謝」である。           (釈 大攝)

第22号 聞法道場

ご本尊とはなにか

仏壇の中心に絵像であったり木像であったりする仏様を「ご本尊」と言う。古来より大切にされてきた。ご本尊はまさに我が家の家宝である。年配者なら、子供の頃「ご本尊さまにまんまんちゃんせんならご飯食べさせんぞ」と言われたことがあるかもしれない。かつての家庭の風景である。▼なぜ祖母や祖父はそんなことを言ったのだろうか。今一度この「本尊」ということを考えてみる。本尊とは「本当に尊いこと」を形に表したものである。では、我々はこの本当に尊いことに手をあわせているだろうか。▼もし「モノ」であるならば、火事になればたちまち消えて無くなってしまう。しかし、「尊いこと」は燃やすことはできない。▼家庭を存続させるための本尊なら、仏様を利用して自分の思いを成就するための「モノ」にすぎない。▼殺伐とした世を生きる子孫たちに本当に尊いことに出遇って欲しいと願う。その為にはまず自分が真実の教えに遇うこと。出遇えた人の教えの響いている家庭は自然に皆が「尊いこと」に手を合わせている。この心がまさに「ご本尊」である。(住職)

お花見/萬行寺壮年白道会

萬行寺には白道会という壮年会があります。名前だけ聞くといかがわしい名前のようですが、決して〇〇団ではありません。かつて仏教青年会で活躍したOBが母体となって作られたものです。
今日はその白道会のお花見です。「夜半に嵐の吹かぬものかは」といった具合に昨日の台風のような激しい雨風で見事に花は散ってしまいました。それでも今日は天候に恵まれ、崎野自然公園では気持ちのいいお花見ができました。
総勢20名。去年と同じぐらいのちょうどいい人数で楽しく語り合いました。

白道会花見

寺報『徳風』第21号 はちす

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』はこんな序文ではじまる。 「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」自力で紡ぎ出した物語ではなく、森羅万象が語るままに筆をとったと始まる。
▼アスファルトの隙間から草花が生えている。その草木は空に向かって伸びていくことを自ら諦めたりはしない。その強かさに心奪われると、もうダメだと愚痴を漏らす我々に「それでも生きよ」と聞こえる。
▼「老いて感じること、それは黙って枯れていく草や木の偉大さである」念仏詩人の浅田正作は教えてくれる。自然の枯れる姿は美しく、散りゆく潔さにも美学を感じる。しかし、人間社会では我々は枯れる事を美徳としない。我々は黙って枯れるどころか自身の境遇に「こんなはずではなかった」と常に愚痴ばかりだ。
▼思えば阿弥陀経には「青色青光赤色赤光 白色白光」とあった。それぞれ与えられた境遇を在るがまま生きて輝く世界。そういう世界を浄土と呼ぶと阿弥陀経で仏陀が説く。そんな世界を誰もが望みながら愚痴をこぼす。そんな自身の姿を林や野原や鉄道線路、虹や月あかりは教えてくれる。

寺報『徳風』第21号 聞法道場

一度の違いが一期の違い

ある法事の席で「お経は生きている我々が教えを頂くために読まれるもの」と一頻りお話し終わった後のことである。
前列に座っていた年配者が「今日は亡くなった友人を迷わず成仏させるためにお経を読んでもらおうと思って来たのに、お経はそんなものではないと言われてがっかりしました。お経が死者を成仏させるものでないなら亡くなった友人は浮かばれないではないか」とのことである。たった今そのことについてお話をしたところだったのだが、既にこの年配者は自分の答えを握りしめておられた。
▼我々は解ったところに腰を降ろして安心を得ようとする。答えを握り締める方が楽なのである。問うということは常に浮遊しているようで不安定さを感じる。しかし問うということは自らをを純化するはたらきをもっている。仏法は柔軟心であるとも言われる所以である。
▼そもそも釈尊の出家は「問い」から始まった。だから、問うことが仏教の原点である。当に釈尊は問いが答えであることを覚ったと言っても過言ではないだろう。仏教では釈尊は何を問うたか学ぶことが大事なことである。
▼「自分の物差しで問うのではなく、自分の物差しを問う」のが仏法である。この年配者は自分の物差しで計っていることに気づいていなかったのではないだろうか。蓮如上人は言われる「そのままいのちおわれば、一期の違いとなる」と。しかし、年配者の問いは、皆そこから始まるのであるから大事な問いであることは間違いない。
 

新一年生お祝い会

お寺というと一般的にはどのような印象があるのでしょうか。
お寺=お葬式というイメージが強くあると思います。
確かに誰か家族や身近な人のご縁でお寺に行く機会が多いことは間違いのないことですが、お寺では年間を通してお葬式以外でも色々な行事を行っています。例えば、最近はほとんどなくなりましたが仏前結婚式や初参式も行っています。
今ではお寺で結婚式?と言われる方が多くいますが、本来仏教徒であるならば、仏様の前で式を行うのが普通のことだと思います。しかし、自分の家庭にお内仏があることを知っていても、なんの違和感もなく教会などでおこなう人も少なくなくないようです。
 たまに法事などで「最近は自分の家には昔からお仏壇があるので先祖の供養では萬行寺さんにお世話になっています。と言われる方でも、家族の結婚式は教会のチャペルで行いましたとなんの違和感もなく普通に報告する方も少なくはありません。家にお仏壇もあって自分も自分の家族も仏教徒だと思っている人でも、結婚式となると教会でおこなうことになんの違和感も感じないということは不思議ですねぇ」というと、「そう言われればそうですねぇ」とおっしゃる方もたまにいるくらいで、あとは何のことを言っているのかという人も多くあります。こんな感覚を持っているのは世界の中でも日本人くらいではないでしょうか。しかし、これもあながちに批判できないことでもあります。

こうなったのはお寺側の責任も大きいことだと思います。
初参式や結婚式やお葬式、または今回の新一年生のお祝い式。どれも人生の大きな節目にお寺に参るというご縁が昔からありました。生まれたことを仏様にご報告し、亡くなるときには仏様と共にお浄土へ。人生の節目にご縁をつなぐ。これもそこに常に如来のご恩の深いことを表現しているのだと思います。


 今日は新しく小学校に入学される児童のお祝い会です。この企画は萬行寺の真宗婦人会が毎年行っている企画で、萬行寺の本堂が再建されてからが始まりですから、かれこれ30年以上になります。
時代も変わり、少子化の時代ですからお祝いに来る児童も少なくはなりましたが、それでも長く続ければ、それだけ次の世代へと移り変わり、かつて自分もお祝いされたというお父さんやお母さんもいらっしゃいます。


1