寺報『徳風』第20号 聞法道場

線香の作法
「線香臭い」ということばがあるように線香はとかく辛気臭い雰囲気の代名詞となっているようである。しかし一方ではいい香りのする線香は心を癒すと人気がある。線香はいわば鼻で嗅ぐお経(説法)である。それと同様にお内仏は目で見るお経、法話は身で聞くお経と言っていい。真宗のお内仏は聞法の為の法具。決して先祖を祀る先祖棚に終始してはいけない。まず法事が勤まる前に香を焚いて清浄な空間をつくる。つまり生活空間が仏まします空間となり、念仏道場となる。そうして参詣者と導師をお迎えする。そのとき既に仏が説法をされているということである。その後は香りがすれば参詣者が焚く必要はない。出来れば良質のものを揃え、二・三センチぐらいに折って少しずつ使うと良い。仏事には欠かせないツールだけに知っておくべき事である。(大攝)

寺報『徳風』第20号 はちす

経教は「鏡」なり
今日も朝からヘルメットをかぶってバイクにまたがり、颯爽とお参りに行く。道路を快適に走っていると通る人通る人の視線が刺さる。「何だろうな」と普段とは違う何かを感じながらもこれといって気にも留めない。お寺の坂を登るところで一人の中学生が二度振り返って小生の姿を見て大きな声で「ええっ!」と大声を上げた。それでも「そんなにお坊さんが珍しいのか!」と思っていた。その後車庫についてヘルメットをとった瞬間、「ええっ」と小生もあの中学生と同じ驚きの声を挙げた。まさか自分がヘルメットを前後ろ逆にかぶってバイクに乗っているとは思っていなかったのだ。ああ恥ずかしい。それどころか見ている人の方が可笑しいといわんばかりだ。人は勘違いをする。自分は間違っていないと。「経教はこれを喩うるに鏡のごとし、しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧を開発す。」
という言葉がある。今から約一四〇〇年程前の中国で活躍した善導大師という僧侶が残した言葉だ。経の仏説は、喩うるに鏡のようなもの。鏡は鏡の前に立つものを偽りなく映し出すように、経を幾度も読み、その心を尋ねれば、我が身の偽りない心と身の事実、そして我々が作り出す世界をつぶさに映し出し、教えられるという。それが経の用(はたら)きであり『智慧』ともいう。自分の姿を鏡に映す。あなたならその鏡に映った顔や姿のすべてをあるがままの「自分」であると受け取れるだろうか。案外自分の都合のよいところだけ見て、見たくないところは見て見ぬふりにしてはいないだろうか。鏡に映った姿は自分には違いないが、それを見る自分の見方に思い込みや都合が入り混じっている。小生は間違っていた。自分ではないと思い込んでいたのだ。全く恥ずかしい限りである。

お彼岸3日目

彼岸3日目です。全日程で5日間ですので、今日の日中で折り返しです。
今日は1日いい天気でした。参詣もいつもよりは多く、楽しい(と言っては変ですが・・・・)法要でした。
日中(朝10:00から)は住職。逮夜(夜7:30から)は役僧の林田さんです。
それぞれの持ち味の出たいい法話で、聞き応えがあります。
ぜひ参詣ください。お待ちしております。

彼岸二日目

彼岸二日目は一日雨。
さすがに「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもの。
雨の一日でしたが、暖かな一日。
これだけ暖かいと雨の具合も「いい湿り」とつぶやいてしまいます。
日中の法話は老院。
逮夜は役僧の三澤さんです。
まだまだ序の口。

彼岸会はじまりました。

暖かくなってきました。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
久々の投稿からまたまたサボっておりました。
彼岸会が始まりました。
初日の17日は前々坊守の10年目の祥月命日でした。
まず余間で願生偈のお勤めした後、正信偈/念仏/和讃『南無阿弥陀仏をとなえれば』(現世利益和讃)のお勤めです。
初日中の法話は住職。逮夜は役僧さん。
明日は前住職(日中)と役僧さん(逮夜)です。


みなさん、どうぞお参り下さい。


聞法道場

仏事のはなし/お斎
■仏事にいただく食事をお斎(とき)という。『斎』という言葉には「つつしむ」という意味があり、飽食の現代人にあっては特に大切な事柄であろう。▼本来は精進料理が基本である。精進料理とは、仏教の根本精神である「慈心不殺(じしんふせつ/慈しみの心をもって殺さない)」に基づいている。であるから単なる宴会ではなく、紛れもなく仏道修行の一つである。
▼『精進』の語は「たゆまず仏道を実践する」の意。昨今は「質素な食事・もてなしの少ない食事」と誤解している人もある。
▼両親を幼くして亡くした童話作家の宇野正一さんは「食べ物には仏様がござる。拝んで食べなされ」という祖父母に育てられた。学校の先生にそのことを尋ねると「ご飯にはタンパク質と含水炭素と脂肪と水分、その他の物は入っとやせんがや」といわれたという。科学的分析ではその通りである。しかしそのような合理的な思考では仏恩報謝は生まれない。
▼口にするのは我を支えてきた目に見えない無量のいのちの歴史である。それらのいのちを頂いて今日がある。そこに慚愧(ざんき)がないなら、慈心不殺という仏心も感じられないし感謝の心も興ってはこない。そのように考えると、お斎は最も身近に仏のご恩を感じる大切な仏事といえる。(釈大攝)

新しい機材購入

講師の先生がお見えになっても法話がよく聞こえないという意見が相次いでいました。音響的にはスピーカーの音量もマイクの感度もハウリングギリギリまで上げていましたが、これ以上は機材の特性上限界があると感じていました。
そこで色々考えた挙句、新しい機材を購入することに・・・・・。n.jpgそれはFMトランスミッターという代物。
仕組みはいたって簡単。いわゆる普通のFM送信機なので電波法の都合上、違法にならない周波数で電波を飛ばせば大丈夫。お寺の境内の範囲ならばどこでも聞くことができます。しかもFMラジオがあればOKなので便利です。モニターとしても使えます。
購入に至るまでいろいろ調べてみました。総合的にはイヤホンガイドが一番いいように思いましたが、本格的なイヤホンガイドならばシステムを導入するにはとても高価で本格的なものなので手が出ません。そこまで使用頻度が高くないということと、聞こえるだけで構わないということを考えると、送信機自体の値段も安価で、使用する年配の方が受信機を使うということを考えると、やっぱりこれが手軽で一番いいとことになりました。
受信機は近所の電気屋さんにも売っている普通のポケットラジオでOK。しかも何台つなげても問題ないし、部屋のモニターとしても使えるから便利です。ただ難点はクリアな音が出ないこと。でも聞くだけなら十分役割を果たします。おすすめですよ。

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案内状の発送作業

2016年春彼岸案内お彼岸の案内状の発送が終わりました。
第22号の寺報『徳風』と一緒に間もまくみなさんの元に届くだろうと思います。
この度の法要の後講師は久しぶりの坂田先生です。楽しみです。

寺報『徳風』聞法道場

お経の意(こころ)
『仏説』
 経題の頭は必ず『仏説』と冠される。これは如来の直説であることを意味している。しかし、お経はすべて釈尊の死後、その教えに出遇った弟子たちによって四百年ほどかかって編纂されたもので、釈尊が直接筆をとって書き記したものではない。
▼私はこの事実を知った時、なんだか裏切られたような気持ちで、信じていた心が揺らいだ。それと同時に仏教とは何であるか、自分にとって仏教とはどのような教えであるのかというあらたな確かめが必要となった。
▼仏説を仏説と謂わしめているものは何であるか。お経は釈尊が直接説いたものでないと知れば、その教えはたちまち何の価値のない「物」となってしまうのか。いや、そうではない。
▼そこに書かれた言葉が現実世界で苦しむ幾千の人々の心を揺り動かし、あらゆる人を救い続け、そして何よりもここにいる私を救う教えであるという本願の歴史が即ち仏説であるということを証明しているのである。
▼親鸞聖人は言われる。「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。」(歎異抄第二章)悠久の時を超えて、その教えをその身にいただいて生きた念仏者の人々の息づかいが確かに聞こえる。

お久しぶりです。。。

最後の更新から2年ぶりの投稿です。
随分と怠けておりました。
御遠忌を2014年10月に厳修し、それから更新が途絶えていましたから、随分となります。
これから、いつまで続くかわかりませんが折を見て更新していきますので宜しくお願いします。

3月のトップページを更新しました。
よろしくお願いします。
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