第19号 聞法道場

親鸞聖人の
御仏事をお勤めする

 ごあいさつ
昨年の十月二十八日。京都の真宗本廟にある親鸞聖人の御真影の尊前にて三十一名の御遠忌お待ち受け記念旅行で上山したご門徒に見守られ、里雄康意(さとおこうい)宗務総長より現住職の退任、ならびに新任住職の就任を拝命いたしました。いよいよと迫った十月十七日からの御遠忌法要初日に「継職法要」にて皆様に披露して、いよいよ新住職・新坊守としての歩みを始めることになります。それと同時に現住職と坊守は現職を退任し、『老院(ろういん)』(または『前住/ぜんじゅう』)と呼ばれ、坊守は『老坊守(おいぼうもり)』といわれる新たな任に就き、これまで通り念仏の教えを皆様にお取次していくこととなります。皆様におかれましては、何卒これからもご教授ご鞭撻の程、よろしくお願い致します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御遠忌法要をお勤めする意義
○御遠忌とは
五十年ごとにお勤めする親鸞聖人の年忌法要です。五十年に一度というと一生に一度の勝縁ですから大切にしたいものです。萬行寺での七百回御遠忌は昭和四十三年に勤まり、前新門さまにおいで頂き帰敬式を実施しています。その後、この度の御遠忌を迎えるにあたって約五十年かけて本堂・鐘楼堂・石垣の再建、庫裏・境内の整備などを行い、昨年は「御遠忌お待ち受け」として帰敬式と本山参詣を行いました。▼法要当日はお世話になった長崎教区第一組の寺院の御住職や若院さん、坊守さま、寺族、または萬行寺の各関係者なども臨席して聖人の御往生を偲び、祖徳を讃嘆しつつ皆様と共に法要を賑々しくお勤めいたしたいとおもっています。
○御遠忌 三つの課題
御遠忌とは、親鸞聖人をお迎えして聖人に真剣に向かい合い、教えとなって今現在説法している聖人に出遇う大切な法要です。▼七五〇年の救済の歴史に参加するということ。それは私自身が教えに生きようと立ち上がることによって始まっていく。究極的に言えば念仏申そうと思い立つ心が興るとき、すでに救済の歴史に参加しているのです。その時、まさに真宗が生きてはたらく仏道となるのです。七百五十年間教えは人から人へと伝わり、その歴史の中にある人々の苦しみや悲しみが教えを求めさせる力となってきました。この救済の大事業に今を生きる私が参加するということです。▼親鸞聖人に向き合おうとしない私に聖人自らが、七百五十年という時を超えて、御遠忌という形で私の前に立ち現われてくださる。私が御遠忌をお勤めするのではなく、親鸞聖人の方からやって来られる。そこで私の志が問われる。▼これまでの五十年を踏まえつつ、これからの五十年の歩みを歩み出す出発点となる法要。御遠忌を目標とするのではなく、御遠忌が新しい時代に歩み出していく出発点となる。お寺もご門徒も新たな気持ちで次の御遠忌に向かって新たな歩みを始める。それが御遠忌です。
(釈大攝)

春季彼岸会

彼岸とは、一般的には春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。
また、この期間に行われる仏事のことをいいます。
元々は中国から伝わったものでしたが、日本に伝わった後、法要を営み祖先を祀(まつ)る行事へと変化していきました。正式には「到彼岸」(彼岸に到る)。

彼岸はParamita(パーラミタ)。日本語では「波羅密」(はらみつ)、英語では「Parfect」というのがそれにあたり、「完成された」・「完璧な」という意味で、覚り(さとり)のことです。
日本語では「彼方の岸」とも読みます。
私たちからは遠くはなれてた覚りの世界、仏(自らに覚めたもの)のすむ世界(浄土)のことです。
それに対して、人を傷つけたり、にくんだりと、悩みの絶えない無自覚なわたしたちの世界を“この岸”、「此岸」(しがん)といいます。 その此岸に住む私たちが、彼岸に住む仏によって自らに覚めること(さとりの世界に到る)を促されてはじめて、わたしたちは悩みの絶えないこの世界から開放されるのです。 わたしたちが彼方の岸(浄土)に往き生まれようと願う者=念仏者になることを、「彼岸」といいます。

講師は岡本英夫先生です。
1