2013.05.26 Sunday
帰敬式についての説明会 その6
昨日に引き続き、萬行寺の庫裏にて行いました。30名ほどの参加でした。
参加者の多くがこの度帰敬式を受けようと思われている方でした。残念なのはこれまで受式されている方の参加が少なかったということです。それでも「何も分からないまま式を受けるのは不安」ということで参加されている方が多くいらっしゃいました。
[帰敬式についてのQ&A] (「帰敬式についてのQ&A」パンフレットより抜粋)
Q 仏教徒(ぶっきょうと)となることは帰依(きえ)三宝(さんぽう)を中心とした生活者となることと云われていますが、その「帰依(きえ)三宝(さんぽう)」とはなんですか?
A 三宝とは、「仏(教えを説くもの)」・「法(教えそのもの)」・「僧(教えを聞く人々の集まり)」のことであり、それは釈尊(しゃくそん)によって確かめられた南無阿弥陀仏の法が、現実の世界に具体的にはたらく姿をあらわしたものです。「仏」とは、苦しみに悩む人間を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚めた「人(釈尊・諸仏)」であり、南無阿弥陀仏は、ことばにまでなった「法」であります。また、「僧」とは、「僧伽(さんが)」といわれ、南無阿弥陀仏によって結ばれた人びとの「あつまり」のことです。私たちにとって、この三つを依りどころとして生きること(帰依)こそが大切であるという意味で「三宝」といいます。
Q 「帰依」ってなんですか?
A この三宝に帰依することが仏教徒としての第一歩です。三宝への帰依はそのまま南無阿弥陀仏への帰依をあらわします。帰敬式においても、南無阿弥陀仏の教えを聞いて生きるものとなりますという自らの名告(なの)りとして「三帰依文」を唱和します。「帰依」には、私の生きていく依りどころと、生きる方向がさだまるという意味があります。仏・法・僧を三宝とする仏教徒は、自らの欲望を満足させるためにいろいろな神をたのんだり、日の善し悪しを占ったりしないということです。また、三法を敬うということは、その必要がなくなるということです。帰依三宝の表明はそのまま私の信仰の表明といえます。
参加者の多くがこの度帰敬式を受けようと思われている方でした。残念なのはこれまで受式されている方の参加が少なかったということです。それでも「何も分からないまま式を受けるのは不安」ということで参加されている方が多くいらっしゃいました。
[帰敬式についてのQ&A] (「帰敬式についてのQ&A」パンフレットより抜粋)
Q 仏教徒(ぶっきょうと)となることは帰依(きえ)三宝(さんぽう)を中心とした生活者となることと云われていますが、その「帰依(きえ)三宝(さんぽう)」とはなんですか?
A 三宝とは、「仏(教えを説くもの)」・「法(教えそのもの)」・「僧(教えを聞く人々の集まり)」のことであり、それは釈尊(しゃくそん)によって確かめられた南無阿弥陀仏の法が、現実の世界に具体的にはたらく姿をあらわしたものです。「仏」とは、苦しみに悩む人間を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚めた「人(釈尊・諸仏)」であり、南無阿弥陀仏は、ことばにまでなった「法」であります。また、「僧」とは、「僧伽(さんが)」といわれ、南無阿弥陀仏によって結ばれた人びとの「あつまり」のことです。私たちにとって、この三つを依りどころとして生きること(帰依)こそが大切であるという意味で「三宝」といいます。
Q 「帰依」ってなんですか?
A この三宝に帰依することが仏教徒としての第一歩です。三宝への帰依はそのまま南無阿弥陀仏への帰依をあらわします。帰敬式においても、南無阿弥陀仏の教えを聞いて生きるものとなりますという自らの名告(なの)りとして「三帰依文」を唱和します。「帰依」には、私の生きていく依りどころと、生きる方向がさだまるという意味があります。仏・法・僧を三宝とする仏教徒は、自らの欲望を満足させるためにいろいろな神をたのんだり、日の善し悪しを占ったりしないということです。また、三法を敬うということは、その必要がなくなるということです。帰依三宝の表明はそのまま私の信仰の表明といえます。