帰敬式についての説明会 その6

昨日に引き続き、萬行寺の庫裏にて行いました。30名ほどの参加でした。
参加者の多くがこの度帰敬式を受けようと思われている方でした。残念なのはこれまで受式されている方の参加が少なかったということです。それでも「何も分からないまま式を受けるのは不安」ということで参加されている方が多くいらっしゃいました。

[帰敬式についてのQ&A] (「帰敬式についてのQ&A」パンフレットより抜粋)

Q 仏教徒(ぶっきょうと)となることは帰依(きえ)三宝(さんぽう)を中心とした生活者となることと云われていますが、その「帰依(きえ)三宝(さんぽう)」とはなんですか?
A 三宝とは、「仏(教えを説くもの)」・「法(教えそのもの)」・「僧(教えを聞く人々の集まり)」のことであり、それは釈尊(しゃくそん)によって確かめられた南無阿弥陀仏の法が、現実の世界に具体的にはたらく姿をあらわしたものです。「仏」とは、苦しみに悩む人間を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚めた「人(釈尊・諸仏)」であり、南無阿弥陀仏は、ことばにまでなった「法」であります。また、「僧」とは、「僧伽(さんが)」といわれ、南無阿弥陀仏によって結ばれた人びとの「あつまり」のことです。私たちにとって、この三つを依りどころとして生きること(帰依)こそが大切であるという意味で「三宝」といいます。
Q 「帰依」ってなんですか?
A この三宝に帰依することが仏教徒としての第一歩です。三宝への帰依はそのまま南無阿弥陀仏への帰依をあらわします。帰敬式においても、南無阿弥陀仏の教えを聞いて生きるものとなりますという自らの名告(なの)りとして「三帰依文」を唱和します。「帰依」には、私の生きていく依りどころと、生きる方向がさだまるという意味があります。仏・法・僧を三宝とする仏教徒は、自らの欲望を満足させるためにいろいろな神をたのんだり、日の善し悪しを占ったりしないということです。また、三法を敬うということは、その必要がなくなるということです。帰依三宝の表明はそのまま私の信仰の表明といえます。


帰敬式についての説明会 その5

今回は時津町の方を対象に萬行寺の庫裏で25日と26日二日間に渡って行いました。それぞれ30名をこえる参加者で賑わいました。ありがとうございました。


今回の帰敬式は、来年に勤まる『萬行寺御遠忌法要』のお待ち受け事業として行います。
 それは親鸞聖人の教えに深く関心を持っていただきたい。つまり本当の真宗門徒になっていただきたい。という願いが根底にあります。それは親鸞聖人の最も悦ぶことをしなければいけません。それは親鸞聖人の教えに深く帰依するということです。親鸞聖人の教えに深く帰依するということは単に親鸞聖人を尊敬するということではありません。親鸞聖人の言葉の中に込められた釈尊の本当に言いたかった私たちへのメッセージを深くいただくということなのです。それが親鸞聖人が悦ばれることなのです。今回のお待ち受けは


[帰敬式についてのQ&A] (「帰敬式についてのQ&A」パンフレットより抜粋)

Q そもそも帰敬式(ききょうしき)ってなんですか?
A 帰敬式は仏教徒の入門式とお考えください。「おかみそり」は真宗独特の儀式として発展し、一八七六年に「帰敬式(ききょうしき)」と名が改められました。その原型となる儀式は、釈尊在世の時代にまで遡ります。在家信者が釈尊の弟子となるとき、出家者の場合には実際に剃髪(ていはつ)をしますが、在家信者の場合には、形式的に剃刀をあてたといわれています。そのことに由来し、真宗の帰敬式では「おこぞり」・「おかみそり」とよばれてきました。本来は京都の真宗本廟(東本願寺)にて受式し、ご門首より法名をいただくのが正式な帰敬式となっていますが、近年の「帰敬式実践運動」の広がりにより、お手次の寺院の住職によって執行できるようにもなりました。

Q 「髪をおろす」ということに何か意味があるのですか?
A  仏教では髪を剃るという行為に「勝他・利養・名聞のもとどり、髪を剃りすてる」と教えます。「勝他(しょうた)」は、他人よりもすぐれていると思う心のおごり。「利養(りよう)」は利欲をむさぼって私腹をこやすこと。「名聞(みょうもん)」は世間での評判のために体裁を取り繕うこと。つまり見栄のことです。「もとどり」とは「束ねた髪」のことで、つまり「丁髷(ちょんまげ)」を剃り落とすということです。権力の象徴である「まげ」を落とすことによって、権力や地位、財産や名誉にこだわり、自分をよく見せようとするこころをすてるということを意味しています。そこにみな平等に三宝を敬う姿勢が表れてくるのです。

Q  帰敬式はなぜ受けなければならないのですか?
A 1 現代は新興宗教にはまる人が多いといわれています。その中には悪質なものも少なくはありません。一度入り込むと抜け出せず人生設計のすべてを狂わせるものもあると聞いています。もし、そのような宗教の勧誘(かんゆう)にあったならば、「私は親鸞聖人の教えをいただいている真宗門徒です。」とはっきりいえることが大事です。そのためには真宗門徒としての自覚をもち、お寺の行事等にすすんで参加するなどのこころがけを持っていただき、親鸞聖人の教えに深く関心をもつことが大切です。そのご縁となるのが帰敬式です。そういう意味において、帰敬式を受式しておくことは大切なことです。

  2 私たちの所属している宗教団体名を「真宗大谷派」といいます。私たちが信仰している浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の教えを聞く人たちを「門徒」と呼んでいます。その真宗大谷派の憲法にあたる『宗憲』では、「すべて門徒は、帰敬式を受け、宗門及び寺院、教会の護持興隆に努めなければならない。」とあります。したがって当派の宗憲においては、帰敬式を受式おられない方は真宗門徒とはよべないといえます。

  3 葬儀の際、亡くなられた仏教徒の法名を位牌に記載しなければなりませんが、生前に帰敬式を受式されるご縁のなかった方の場合は、法名がなければ儀式が執行できません。ですから、本来の形ではありませんが便宜上、命終後に帰)敬式を執行し、法名を授けて、仏教徒となっていただいた後、葬儀を行います。そういうことからもご縁がある方は生前に帰敬式を受式し、仏教徒とならなければいけないといえます。
一言でいうならば、仏教徒でなければ葬儀を執行することができないということです。いのちはいつ尽きるかわかりませんのでご縁のある今、受式をするチャンスではないかと思います。
  
Q では、そもそも「法名」ってなんですか?
A 私たちが普段使っている名前は俗名とよばれ、両親の願いがかけられて名づけられたものです。一方、帰敬式を受けると「釈」の名字が冠せられた二字の法名を賜ります。これは仏さまからこ世を生きる使命を与えられた証であるといってもいいでしょう。仏さまの願いを「本願」といいますが、その本願に出(で)遇(あ)い、三宝に帰依して生きるものとなるという名告(なの)りです。

Q 本来、「法名(ほうみょう)」は亡くなった時にいただく名前ではないのですか?
A 法名(ほうみょう)は、お釈迦さまの教えを聞いて生きる者としての名告(なの)りですから、亡くなってからの名前ではありません。私たちは大切な方が亡くなられると、葬儀や法事を勤めます。そしてそれらは当然「法名(ほうみょう)」で行われます。また、各ご家庭ではお内仏に亡くなった人の法名をおかけしますので、誤解されがちです。私たちは、葬儀や法事を「死者供養」「先祖供養」という意味で勤めがちなようです。しかし、亡き人への供養だけが、本当に亡き人を大事にし、亡き人の生涯を尊んでいくことになるのでしょうか。残されたもの本当のつとめはどのようなものなのでしょうか。そのことを私たちは考えていきたいものです。

Q 普通は「戒名(かいみょう)」という言い方をしますが、真宗ではなぜ「法名(ほうみょう)」と呼ぶのですか?
A 呼び方が違うだけだとお考えの方もあるようですが、基本的に「法名」と「戒名」は意味合いが異なります。一般的には「戒名」を死後に与えられる名前と考えられているようですが、それも誤解です。聖者に成るための仏教では、厳しいルールをまもりつつ、規則正しい生活をする者を「仏弟子(仏教徒)」と呼んでいます。自らを厳しく戒(いまし)めることを「戒(かい)」といい、共に仏道を歩む仲間から厳しく戒められることを「律」といいます。その誓いをたてた証として戒名を授かるのです。一方、真宗は「愚者になる教え」ともいわれ、煩悩にまみれてしか生きることのできない自分であり、聖者に成りたいと願ってもその願いすら煩悩にまみれたこころから出ていると自覚する事が大事だと説きます。私たちはそのような「いずれの行もおよびがたき身」であるからこそ、私たちに残された唯念仏(ただねんぶつ)を称えるしか残されていないのです。だからこそ阿弥陀如来は、「我が名を呼ぶ者を無条件に救い遂げる」と私たちに誓っておられるのです。その如来のこころを聞き、その願いに生きる者を「仏教徒(仏弟子)」と呼び、そのようなものに平等に法名(ほうみょう)は与えられるのです。

春季永代経法要

初日  仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
二日目 仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょう)
三日目 仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)

ご講師の先生は前回に引き続き、加来知之師(福岡県京都郡浄邦寺住職)にご法話をお願いしました。
加来先生の堅実なご法話。奇をてらわないまっすぐな姿勢と、基礎をしっかりおさえておられる的確なたとえは安定感があります。参詣されたご門徒の中にはお話が難しいと思われる方もいたようですが、このようなお話も「仏教を学ぶ」という視点からみるととても大事なことで、このことをしっかりふまえていないといけない大事な部分をお話しされました。
如来の本願。第一願は、我々人間の在り方を問う願であるということをお話しされました。

帰敬式についての説明会 その4

琴海地区
琴海ニュータウン内にある「西武長崎墓地霊園」の管理棟をお借りして説明会を行いました。
なかなか宗教団体には公共施設を貸していただかないということが分かったことも今回の収穫です。
ですからここ管理棟をこころよく貸してくださったこともとても有り難いかぎりです。

今回は5名の参加がありました。少々寂しくもありましたが、帰敬式に対して認識がされていないということがよくわかります。まぁそれも現実でしょう。
なかなか帰敬式といっても浸透していないのが現実です。多くの人が『戒名』という言い方をします。葬儀の時に位牌に書かれた法名を見て初めてその人がどのような法名をいただいているのか知るのが実情ですので、これまでいかに何もしてこなかったか反省させられることばかりです。
萬行寺ではこれまでの約20年間で300名を超える方が帰敬式を受式し、法名をいただいたのですが、その後、その多くは引き出しにしまったままや、受けただけで終わってしまっていました。中には大事にして事あるごとに出してはながめていた方もいたようです。何度も開見て法名用紙がぼろぼろになっているものも中にはありました。中にはそのことがきっかけになって足しげくお寺の階段を上り下りする同行になっていかれた方もいました。
今回、色んなところで帰敬式についてお話しされてもらっていますが、繰り返し繰り返し説明をするたびに「ああ、やっぱり帰敬式って大事なんだな」と思わされました。
真宗大谷派は前回のご遠忌以降真宗同朋会運動という信仰運動を展開していますが、その運動の指し示す願いは、”古くい宗門体制の克服”と、現代社会における宗教的”個”の自覚にあったといえます。
かつての”家”は宗教心を育む場でした。しかし、それが成り立たない現代は、かえって一人一人が宗教的自覚を持つことを求められる時代になったのだと思います。
宗門がいう”個”の自覚とは、「私の家は真宗の門徒」と言っていた者が、「私は真宗門徒です」と言える者となということです。
そういう角度から見ていくと、帰敬式を受けるということはとても大事なことだと言えます。

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