長崎教区第一組 児童大会

暑い夏もいよいよ終盤!子どもたちも残り少ない夏休みを
福田の西光寺にて一組児童大会が行われました。福田は西彼杵半島の付け根に位置し、長崎市の中心部から見ると、ちょうど稲佐山の裏側になります。
西彼杵半島の半分は東シナ海に面していて、その地域を外海(そとめ)とよんでいます。萬行寺のある時津は大村湾内にありますので、内海(うちめ)と呼ばれています。外海はキリスト教の教会群があることで有名で、福田はその外海の南側の一番端に位置しています。

福田は外海に面しているため、寛政4年(1792)島原の眉山の爆発による大津波の被害を受けたことがあるそうです。

かつて津波が襲ってきたことが印された跡や津波の被害を最小限に抑えるために造られた昔の堤防や、津波にまつわる言い伝えや伝説などがいくつか残っています。この度の東日本の災害を受け、福田にある津波の史跡や伝承を見聞しました。

萬行寺日曜学校 光源寺へ行く

ようやく雨続きのお盆も終わり、長崎市内も帰省の車が目立ち出してきました。お盆休みも終わって現実の生活に帰る頃になるのでしょうか。

 今日は萬行寺日曜学校の特別企画。伊良林にある光源寺さんに「産女(うぶめ)の幽霊」を見学に行きました。
初めて聞いたことですが、産女の幽霊は、「飴屋の幽霊」ともいわれ、古くはガンダーラの石像の中に「死女が子を産む説話」のレリーフがあるのだそうです。



さらに詳しく聞いてみると、この像は、の木彫り像で、現在は頭部と胸部しかありません。かつては胴体もあったのだそうですが、原爆で壊れたということです。
幽霊の像が納められている桐箱には墨書で「延享五歳…」とあって、延享5年(1748)に作られたもので、およそ260年ほど前のもののようで、どうやら作者は不明なのだそうです。
由緒書によれば、二十四輩(親鸞聖人の関東時代の高弟24人と、その24人を開基とする寺院)の一、十八番目の弟子である入信房が開基とされる常陸国(茨城県)無量寿寺にあった幽霊と書かれいるそうで、同寺の伝説を元につくられた幽霊像と見られているのだそうです。
そんな由緒正しいものだとは全く知りませんでした。
無量寿寺

幽霊像を持って、各地を布教していた人が、最後に譲り渡したのが長崎の光源寺らしのです。最近は、「古い家を解体したら幽霊の掛軸がでてきた!」といって、光源寺に持ち込まれることもあるそうで周りにもいくつか幽霊の掛け軸が飾ってありました。


墓の中で生まれてしまった子供のために、三途の川を渡るための六文銭を使って飴を買い求めるようなやさしい母親とはとても思えない恐い顔ですが、実はこの像には由来書があり、飴買い幽霊のお話は後日付け足されたものだと言うことがわかっているそうです。


真宗のことば59

念仏はかいなきひとのためなり
            「歎異抄」

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