2011.07.29 Friday
2011.07.27 Wednesday
真宗のことば58
2011.07.26 Tuesday
子ども会巡回/柳渓寺
2011.07.15 Friday
作上がり法要
作上がり法要は二日間です。
今年の作上がりは、参詣者が少なかったように感じました。
もう終わりましたが、大体このころになると、時津の港から太鼓や鐘の音が聞こえてきます。ペーロンの囃子です。
ペーロンとは、約14mの船に約30人が乗り込み、太鼓と鐘の調子に合わせて競漕する、いわゆるボートレースです。
最近は太鼓は載せないそうですが、鐘の賑やかな音は陸まできこえてきます。
調べてみると、歴史は古く1655年(明暦元年)唐船で長崎に来航した中国人の手で始められたとありました。
ペーロンは元来、端午の節句に行なわれるのがしきたりだったといわれています。しかし、今は夏の風物詩のひとつとして各地で広く行なわれるようになりました。また最近では中国と国際試合を行なうまでになっています。
昔は銅鑼や太鼓・笛などの鳴り物を乗せてのろしを上げ、現在のような速さを競い合うものではなく、船で湾内を漕いで作物の実りや海の大漁を神に感謝し、奉納祭りだったともいわれていますが、確かな事はわからないそうです。
いずれにしてもこの時期は、作物がひとしきりあがる「作上がり」の時期にあたるために何らかの形で神仏に祈りを捧げていたということはあったのではないかと想像できます。
昨今では、農業従事者や漁業の仕事に従事する人も減ってきていることから、このようなことは時代とともに様変わりしてきたのだろうと思います。いずれにしても、時代の淘汰とはそのようなものなのかもしれません。
いや、お寺もその例外ではないのです。
今年の作上がりは、参詣者が少なかったように感じました。
もう終わりましたが、大体このころになると、時津の港から太鼓や鐘の音が聞こえてきます。ペーロンの囃子です。
ペーロンとは、約14mの船に約30人が乗り込み、太鼓と鐘の調子に合わせて競漕する、いわゆるボートレースです。
最近は太鼓は載せないそうですが、鐘の賑やかな音は陸まできこえてきます。
調べてみると、歴史は古く1655年(明暦元年)唐船で長崎に来航した中国人の手で始められたとありました。
ペーロンは元来、端午の節句に行なわれるのがしきたりだったといわれています。しかし、今は夏の風物詩のひとつとして各地で広く行なわれるようになりました。また最近では中国と国際試合を行なうまでになっています。
昔は銅鑼や太鼓・笛などの鳴り物を乗せてのろしを上げ、現在のような速さを競い合うものではなく、船で湾内を漕いで作物の実りや海の大漁を神に感謝し、奉納祭りだったともいわれていますが、確かな事はわからないそうです。
いずれにしてもこの時期は、作物がひとしきりあがる「作上がり」の時期にあたるために何らかの形で神仏に祈りを捧げていたということはあったのではないかと想像できます。
昨今では、農業従事者や漁業の仕事に従事する人も減ってきていることから、このようなことは時代とともに様変わりしてきたのだろうと思います。いずれにしても、時代の淘汰とはそのようなものなのかもしれません。
いや、お寺もその例外ではないのです。
2011.07.14 Thursday
作上がり法要
「正信偈のいわれ」をお話しいただきました。
境内にはきれいな蓮の華が咲いています。
「作上がり」ということばから、昔の人たちの生活の豊かさを感じます。
昔の人は農閑期になると、「農作業も一段落。静かに本を読むような時間も出来たから、そろそろお寺に行こうじゃないか。」といってお寺に仏法を聞きに集まっていたそうです。
それはお寺に行くぐらいしか他に楽しみがなかったからだという人もいます。それもそうかもしれません。現代のように車もなければ、どこか楽しいイベントでもやっていないかなとパソコンやテレビなどで情報を手軽に仕入れられる時代ですからいわれるのももっともかもしれません。しかし、そこには「農作業も一段落。静かに本を読むような時間も出来たから、そろそろお寺に行こうじゃないか。」という昔の人のたしなみにはもっと違う大切なことをいっているのではないかと思います。
ゆっくり静かに物事を考える・・・・そのような時間はとても大切だなと最近ことに思います。
今はたとえ生活が貧しくとも、心が豊かでのびのびした生活はまれになってきているようにも感じます。「殺伐としている」という代名詞があたるような現代は、ただ慌ただしく一日中仕事に終われ、家へ帰ると疲れはてて寝てしまう。そのような毎日の中にあっても、人の心は常に本当の意味で解放されるような有り方を求めているのではないでしょうか。
境内にはきれいな蓮の華が咲いています。
「作上がり」ということばから、昔の人たちの生活の豊かさを感じます。
昔の人は農閑期になると、「農作業も一段落。静かに本を読むような時間も出来たから、そろそろお寺に行こうじゃないか。」といってお寺に仏法を聞きに集まっていたそうです。
それはお寺に行くぐらいしか他に楽しみがなかったからだという人もいます。それもそうかもしれません。現代のように車もなければ、どこか楽しいイベントでもやっていないかなとパソコンやテレビなどで情報を手軽に仕入れられる時代ですからいわれるのももっともかもしれません。しかし、そこには「農作業も一段落。静かに本を読むような時間も出来たから、そろそろお寺に行こうじゃないか。」という昔の人のたしなみにはもっと違う大切なことをいっているのではないかと思います。
ゆっくり静かに物事を考える・・・・そのような時間はとても大切だなと最近ことに思います。
今はたとえ生活が貧しくとも、心が豊かでのびのびした生活はまれになってきているようにも感じます。「殺伐としている」という代名詞があたるような現代は、ただ慌ただしく一日中仕事に終われ、家へ帰ると疲れはてて寝てしまう。そのような毎日の中にあっても、人の心は常に本当の意味で解放されるような有り方を求めているのではないでしょうか。
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