長崎分室公開講座

坂東本と親鸞聖人。
長崎分室の毎月の定例では、親鸞聖人の真筆といわれる坂東本のコロタイプを皆ですこしずつ繰り読みしています。
 去年の御遠忌お待ち受け大会で記念として真宗本廟から、長崎教区に坂東本のコロタイプ版が寄贈されました。しかし、それをそのままにしておくのはもったいないということで、分室では親鸞聖人の息吹を間近に感じられるのではないかということで、少しづつですが繰り読みをしていくことになりました。

今回の公開講座の講師は、教行信証の修復を監修した三木彰円先生(大谷大学専任講師)。坂東本の修復に携わった方でもある師が

親鸞聖人が生涯をかけて書かれた教行信証。「坂東本」は、親鸞聖人60歳前後の筆と考えられている教行信証の中では唯一の真筆本といわれ、全六冊からなり、聖人滅後関東の門弟によって保管され、後に同派の坂東報恩寺(東京都台東区)に伝えられたことから「坂東本」と呼ばれています。昭和27年に国宝に指定され、同29年に一度修復が行われているそうです。
今回の修復は今から57年前なので、修復の際に徹底的な調査を施すのはこの機会を見逃すと次はいつまで待たなければいけないのかわからなかった。

子ども会巡回/浄真寺

今日は10時からの定例法座が終わり、足早に浄真寺へ向かいます。浄真寺は長崎市の水浦にあります。今日は朝からあいにくの雨で、少々ジメジメした天気でしたが浄真寺には子どもたちもたくさん集まり楽しい巡回でした。





ゲームも大盛り上がり。
指導は教区一の長身の新人さん。あまり子どもたちにふれる機会が少ないのかな?それでもゲームは大盛り上がり。
ゲームはやっぱり単純で、みんなが簡単に参加できるものが一番面白いですね。





次回は夏休み中の7月26日。三和町にある柳渓寺(りゅうけいじ)にて行います。


雑感/夏至のこと

たまにはお寺とは関係のないことを書いてみます。たまにはね。

明日は「夏至」だそうです。
夏至といえば、なぜか思い出すのがシェークスピア唯一の書き下ろしといわれる『夏の夜の夢』。

原題は『A Midsummer nights Dream 』。
1590年代中頃に書かれた喜劇形式の戯曲で、全5幕。アテネ近郊の森に脚を踏み入れた貴族や職人、森に住む妖精たちが登場し繰り広げられる喜劇。

日本語では真夏の夜の夢、または夏の夜の夢とも呼ばれています。大学でこのお芝居のタイトルにある「Midsummer」は真夏のことではなく、夏至のことであるという講義を聴いたのをなぜか思い出します。
 日本では古くから、坪内逍遥、三神勲などの翻訳で『真夏の夜の夢』という訳題が用いられてきたという経緯から、原題の midsummer night を直訳して「真夏の夜」としてきました。また辞書によるとmidsummer day には真夏、盛夏の意味もありますが、夏至 (summer solstice) の意味で用いるのが一般的であるとあります。
いろんな意見のある中で一番頷けるのは、この物語が夏至の夜に妖精たちが祭りを開くというヨーロッパの伝説を下敷きとしてシェークスピアが書いていることから、この場合の midsummer は「夏至」であると考えるのが一般的なようです。

笑いの中に閉じ込められているシェークスピア自身の体験や経験から紡ぎ出される人間へのまなざしはいつの時代になっても変わらない普遍性を持っている。

やっぱり、シェークスピアは面白い。

帰敬式受式者の集い

この集いは去年も行い、毎年続けていこうと考えています。前回は案内を出した受式者の半数近くの40名ほどが参加されましたが、今回は20名と少なめの参加でした。対象者は2007年以降に受式された方が対象としています。
 今回は法話の後に座談会と質疑応答を行いました。多くの質問や意見が出ましたが、やはり多くの方が自分の法名の意味を知りたいと考えているようでした。
今後その問いにいつまでもいろいろと理屈をこねて多くの人が求めていることとをしないのではなく、相手が求めるものに真剣に向かい合いながら丁寧に答えていかなければ、布教にならないのではとおもいます。
その他には仏事についての質問が多くでました。「お盆の提灯はどこにかけたらよいか」、「毎日の勤行はどのようにしたらいいのか」、「仏さまにお供えした供物が腐ってしまったらどう処分したらいいか」などいろいろでました。なかには答えられない、また答えようのない、または答えにくい質問もだされましたが、このようなことに応えてくのが大事なのだと改めて想わされされました。
 こちらからもいくつか質問させていただきました。帰敬式というものを出来るだけ多くの門徒に知っていただくためにはどうしたらいいか、またいただいた法名を仏壇の引き出しにしまったままにしておかないようにするにはどのようにすればいいのか、ということをお尋ねしました。

帰敬式を受式された後も仏壇の引き出しなどに大切にしまっておく人が多いのですが、ご本人が亡くなられた後、その法名の所在が判らなくなって帰敬式を受けて法名をいただいているはずなのに、また付けなおすということがよくあります。また、生前にその方が帰敬式を受けられていることを家族が知らなかったり、帰敬式自体を知らなかったりするケースがよくあります。そのようなことをどのようにクリアしていけばいいのか暗中模索の状態です。



去年の長崎教区で行ったお待ち受け大会では、帰敬式を受式した後のアフターケアをどのようにして教化活動に続けていくのかが問題となっていました。いまのところ地道にこのような集いを続けていくことから初めていくしかないと考えています。帰敬式ということの意義が多くの人に浸透していくには、受式されたかたがその他の方にどのようにして帰敬式ということが大切であると伝えられるのかが大事ではないかと感じます。我々僧分だけでは力不足ということも含めての届かないこともあります。
地道な活動を続けていくことから始めなければいけないとおもっています。


1