御遠忌団参でいこう!!  三日目 御縁忌参拝

三日目はいよいよ御遠忌参拝。この日のためにはるばるやってきました。
襟を正して、いざ真宗本廟へ。


第2期法要は4月19日(火)から4月28日(木)まで勤めらます。


修復後初めての真宗本廟。大きなスロープが正面にありました。






1座で約5500人程のご門徒方が参堂されました。
第2期法要は、第1期法要の「被災者支援のつどい」の願いが引き継がれ、法話や感話においても、震災を受けてのお話でした。
法要では、被災された方々に思いを馳せながら念仏を称え、厳かに勤まれました。

【式次第】

真宗宗歌
門首のことば
内局挨拶
感話
法話
勤行
 伽陀 稽首天人
 登高座
 表白
 伽陀 直入弥陀
 下高座
 正信偈 草四句目下(同朋唱和)
 念仏讃 淘三
 和讃 弥陀大悲の誓願を 次第六首
 回向 願以此功徳
災害救援本部からの報告
決意表明
恩徳讃

【宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要 決意表明】

あらためまして、本日、ご参集の皆さまと共に、東北地方太平洋沖地震災害「被災者支援」、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要にお遇いできましたことを、まことに有り難く受けとめるものであります。
私たちは、このたびの巨大地震激甚災害の只中でお迎えいたしました御遠忌法要において、現代という時代に、はからずも仏教にご縁をいただき、お念仏の教えに基づいて生きる浄土真宗の門徒であることを、あらためて、一人ひとりが問い直す、大事な使命を頂戴いたしました。
震災の痛ましい現実に、日々、支援の思いが込み上げながら、南無阿弥陀仏のはたらきに照らし出されるみずからは、自分の思い・分別の始末に困りはてている、煩悩具足・罪悪生死の凡夫であります。
この惨状に真宗はどのようにはたらく教えだろうかと自問すれば、それ以前にそもそも何か教えが身に付くような自分であるのかと、厳しく問い返されることであります。私たちは、被災者の方々のために何かをするというよりむしろ、何も徹底できない、はなはだ申し訳ない自分である、というところに立ち、であればこそ、決して沈み込まずに、せずにおれないこととして、精一杯の救援活動に取り組むべきでありましょう。
「慣れ」や、記憶の「薄れ」がもたらす危うさ、すなわち「日常性の埋没」・「事象の風化」を、自分の問題として引き受けながら、できるかぎり、救援金を出し合い、物資をお届けし、ボランティア活動などの支援を、具体的に持続していく、継続的な取り組みを行ってまいりたいと思います。今ここに、御遠忌基本理念として掲げてまいりました。
「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という言葉を、あらためて受けとめますとき、その意義は、すでにして大無量寿経に「汝、起たちて更に衣服を整え 合掌恭敬して、無量寿仏を礼したてまつるべし」と、真実の教えをもって示されておりました。
被災された方々は、私たちに、人と生まれた悲しみをとおし、共に生きるものが人間である、という大切なことを思い出させてくださいました。
代理のきかない我が身・人生であり、やりなおすことはできません。しかし、共に見直すことはできます。見直すとは、自分の考えのみを正しいこととして、間がらを断ち、常に座り込もうとする怠惰で傲慢な在り方が、教えによって知らしめられ、そこから謙虚に起ち上がり続けることであります。
今こそ、一人ひとりが親鸞聖人に真向かい、これまで分かりきったことにしていた「出遇い」や「つながり」を受け取り直す必要があります。それは、帰依三宝の生活を回復すること、すなわち「如来よりたまわりたる信心」によって成り立つ「方向のある生活」と「真のつながり」を、共に培っていくことにほかなりません。
本日、ご法要にお遇いした私たちとして、「共に念仏申し、起ち上がり続ける」ことを、親鸞聖人の御真影の御前にて表明し、このたびの御遠忌法要における、宗門の決意とさせていただきたく存じます。












阿弥陀堂の屋根。これから修復に入るそうです。


御影堂の大屋根。迫力があります。




各教区がそれぞれの展示を行っています。長崎からは「非核非戦」の展示です。

御遠忌団参で行こう!! 二日目 5、比叡山 

とにかく寒い!!4月だから寒いといってもコートぐらい持っていけばいいだろうとおもっていましたが、まさか雹が降るとは本当に予想外!侮るなかれ比叡山。
「親鸞聖人はこんな自然の厳しいところで修行をされていたんですね」とご門徒の一人。いや〜。そうですね。まったく。


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大正10年(1921)に西本願寺の宝物庫から恵信尼が越後から京都に住む末娘の覚信尼に宛てた恵信尼の書状十通が発見されました。
その中の文章に、「殿の比叡の山に堂僧つとめておわしましけるが、山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世の事いのり申させ給いける九十五日のあか月の、御示現の文なり。御覧候えとて、書きしるして参らせ候う。」と書かれていました。この文が発見された事により、今では信じられないことですが、当時の西洋史学の観点からは「架空の人物ではないか」とさえ疑われていた親鸞聖人の行実がこの書状によって明らかになったのだそうです。その後の研究で”堂僧”という文について説がわかれたらしいのですが、最近になって判明したのは、天台法華宗の修行・止観行の「四種三昧」のうちの一つである常行三昧の堂僧であったことが判明しました。常行三昧は「常に歩く」行で、心では常に阿弥陀仏を念じつつ口では常に阿弥陀仏の名を唱えながら本尊・阿弥陀如来像の周りを廻り続ける修行です。修行期間は90日間にも及ぶ大変過酷な修行です。
常行三昧堂は現在西塔にのみに残っていて、長い間そこが親鸞聖人の修行の堂だといわれてきました。しかし最近になって親鸞聖人が比叡山にのぼられた頃は、各塔にそれぞれ三昧堂が建てられ、横川には首楞厳院(しゅりょうごんいん)の一隅に建っていたという事が明らかになりました。(現在の高浜虚子の塔のあたり)親鸞聖人が横川で修行したという事は、御伝鈔にも書かれていて多くの知るところですが、常行三昧の堂が横川にあったとは考えられていなかったのだそうです。
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川地区は西塔から北へ4キロほどのところにあります。香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷の6谷があり、嘉祥元年(848年)、慈覚大師・円仁が首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立したことに始まります。横川地区は比叡山のいちばん北に位置し、平安の昔から現代にいたるまで多くの文学作品の舞台となっています。この地を開いた慈覚大師・円仁も、日本人初の旅行記「入唐求法巡礼行記」を著わしています。

「源氏物語」手習いの巻には「横川になにがしの僧都とかいひて、いと尊き人住みけり」と、「往生要集」を著わした恵心僧都源信が登場しています。横川地区の代表的な建造物には舞台づくりの横川中堂、四季に法華経を議論する四季講堂、如法写経を収めている根本如法塔などがあります。


源信僧都が居られた恵信院。普段は公開していないそうですが、団体で参拝がある時には公開しているそうです。



比叡山の方にご案内いただきました。


その後は琵琶湖の宿へ。バスの中ではみなさん疲れたのでしょうか、ぐっすり寝ていました。

琵琶湖の夕暮れ。


御遠忌団参で行こう!! 二日目 4、青蓮院 

明日ありとおもうこころのあだ桜
夜半に嵐のふかぬものかは


幼くしてご両親を亡くされ、激しい無常を感じられた親鸞聖人は、出家の志を深く心に固め、叔父の日野範綱(ひののりつな)卿に伴われて、京都の粟田口にある青蓮院(しょうれんいん)の門をくぐり、出家得度(しゅっけとくど)の式にのぞまれました。九歳の春のことでした。


青蓮院のホームページをのぞくと、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られています。現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられています。青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院とされております。とのこと。



あいにくの雨で、写真を撮るには今一の天気。

苔むした根っこの力強いこと。





御遠忌団参で行こう!! 二日目 3、崇泰院 

本願寺発祥の地、崇泰院

ここは元大谷(もとおおたに)と呼ばれ、本願寺の発祥地です。現在は、知恩院境内の塔頭(たっちゅう)となっています。
弘長2(1262)年に亡くなられた親鸞聖人は,鳥辺野北の大谷に葬られました。
その後、門弟の協力のもと、親鸞聖人の末娘である覚信尼により、 文永9(1272)年に「吉水の北の辺」に改葬し、「大谷廟堂」を建立されました。その堂は内紛のため破壊され、本願寺三世の覚如上人が再建し「専修寺」と号し、その後本願寺と改称することとなったそうです。
本願寺第8世の蓮如上人はこの地で誕生されています。 当時の本願寺は、本堂は三間四方の質素なものでだったそうで、「人跡たえて、参詣の人ひとりもなく、 さびさびとしておわす(本願寺跡書)」と伝えられています。生活にも困るといった状況だったそうです。その後、蓮如上人の精力的な布教活動により、本願寺(大谷本願寺)は急速に 精力を拡大していくこととなりますが、比叡山衆徒の反感が強くなり、正月と三月の二度に渡り、襲撃を受け、破却されました。 この法難に遭うまでの約200年間「本願寺」はこの地にあったのです。



御遠忌団参でいこう!! 二日目 2、日野誕生院 


    誕生院正面
ここは西本願寺の飛び地境内だそうです。
 江戸時代末期の文化年間(1804〜17)。西本願寺の第十九代門主・本如上人が法界寺境内地は親鸞聖人誕生の地と検証し、法界寺と交渉の末、一部を譲り受け大正12年(1923)の立教開宗700年記念の記念行事として本堂・書院の改築が計画され、昭和6年(1931)に本堂が完成したのだそうです。
本堂正面
もっと古い建物なのかと思っていましたが、以外に新しく出来たお寺だったのですね。知りませんでした。恥ずかしい。




御遠忌団参でいこう!! 二日目 1、日野法界寺



ここは開基が伝教大師最澄とされている真言宗醍醐派の別格本山だそうで、親鸞聖人は日野有範の子としてここでお生まれになられたとされています。ここの本尊は薬師如来があるらしいのですが、秘仏となっているそうです。
「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名でも知られている薬師信仰の寺なのだそうです。

 寄せ棟の屋根がかっこいい薬師堂
 ここには国宝の阿弥陀堂があります。その堂内には11世紀末頃の作といわれる高さ2.8メートルの阿弥陀如来像が安置されていることでも知られています。ここへきて初めて知ったのですが、この本堂は比叡山にもある常行三昧堂の形式で建てられていて、この中で常行三昧の修行をするお堂だそうです。
「常行三昧/じょうぎょうざんまい」とは、堂内に百日間籠り阿弥陀如来の周りを念仏を称えながらひたすら回続ける修行だそうですが、比叡山では一番厳しい修行ともいわれているそうです。ここではそれぐらい厳しく修行をされるのかはわかりませんが、親鸞聖人が比叡山に登られ、たくさんある修行の中からなぜ常行三昧の修行を選ばれたのか疑問でした。しかし、すでにそのご縁はこの法界寺で阿弥陀堂に由来しているのだと初めて知りました。

桧皮ぶきの屋根がとてもいい感じの阿弥陀堂

    山門からの眺め

      庫裏





御遠忌団参でいこう!!  〜一日目〜

いよいよ待ちに待った御遠忌。またとない勝縁です。
早朝六時集合。15分出発です。バスにて一路福岡空港を目指します。そこから伊丹空港までの1時間ほどのフライト。長崎教区の第一組の団体参拝ですが、バスは一台萬行寺の貸し切り状態。
他のお寺は乗り合わせて長崎空港からの出発ですが、萬行寺はちょうど一台分の参加者でしたので、去年からの航空各社の大型飛行機が飛ばなくなったことで福岡空港から飛ぶことになりました。
長崎は曇りで雨は降りそうにありませんでしたが、大阪はあいにくの雨で傘が必要です。



まずは親鸞聖人が最初に草庵を建てたと言われている岡崎別院へ。隣接して『専修念仏の道場』と書かれた看板がかかかっている大谷専修学院岡崎学舎があります。


その後は、「親鸞聖人750回忌 真宗教団連合40周年記念
親鸞展 生涯とゆかりの名宝」へ。



東西本願寺をはじめ、真宗十派の本山や寺院などが所蔵する国宝、重要文化財を通して「親鸞聖人の教えと生涯」、「浄土真宗のひろがり」、「伝来の名宝と美術」をみる。国宝、教行信証(坂東本)など国宝9件,重要文化財36件を含めた約130件を展示だそうだ。

教行信証(きょうぎょうしんしょう)(坂東本[ばんどうぼん])親鸞筆 6冊
紙本墨書 鎌倉時代・13世紀 京都・東本願寺蔵
正式名称は『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』という。浄土真宗の教義の綱格(こうかく)と念仏往生の真義(しんぎ)を明かした根本聖典である。現存諸本のうち唯一の親鸞真筆本で、全篇に残された記号や朱筆、校合(きょうごう)・推敲(すいこう)の筆からは、親鸞の思索の跡をうかがうことができる。坂東報恩寺(ばんどうほうおんじ)(現 東京都台東区)に伝来したため「坂東本」とも称される。

三帖和讃(さんじょうわさん)親鸞筆 3冊
紙本墨書 鎌倉時代・13世紀 三重・専修寺蔵
「浄土和讃(じょうどわさん)」「浄土高僧和讃(じょうどこうそうわさん)」「正像末法和讃(しょうぞうまっぽうわさん)」の三帖からなっており、仏菩薩や高僧の徳を讃えた讃歌は日々のお勤めの中でも最もなじみ深い。「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」は、親鸞76歳の宝治2年(1248)完成の225首の和讃に、大勢至(だいせいし)和讃を8首加えて成立したもの。外題(げだい)のほか浄土和讃の首尾の振仮名や左訓、表裏見返しの文言などが親鸞自筆で、本文は親鸞直弟で専修寺第2世の真仏(しんぶつ)の筆と考えられている。また、正像末法和讃のうち第1首から9首目までは親鸞自筆の草稿である。
(展示期間:4月19日〜5月29日)



安城御影(あんじょうのごえい)1幅
絹本着色 鎌倉時代・13世紀 京都・東本願寺蔵
建長7年(1255)親鸞83歳の肖像画。原本がはじめ三河国(愛知県)安城に伝わったことから「安城御影」と呼ばれる。西本願寺本と同様の像容で草履や杖などの愛用品とともに描かれるが、状態もよく、老齢の親鸞の相貌が見て取れる。絵の上下3段に記された賛は『浄土論(じょうどろん)』などからの引用で、西本願寺本とほぼ同じで若干異なる箇所もあるが、いずれも親鸞真筆とみられる。
(展示期間:4月19日〜5月1日)
親鸞聖人坐像(しんらんしょうにんざぞう)1躯
木造 南北朝時代・14世紀中期 三重・専修寺蔵
この像は、もとは専修寺(せんじゅじ)境内東側に所在の慈智院(じちいん)に安置されていたもの。聖人83歳のときに画かれた「安城御影(あんじょうのごえい)」を手本に、寄木造(よせぎづくり)の木像とし、祖師像の立体化を目指して制作された作品。像高30.5cmという小さな像ではあるが、 絵の中の聖人像をよく活写し、現存する聖人木像のうちでも最も古くかつ優れた作例として評価されている。この像の胎内納入文書と伝える書状により、南北朝時代・14世紀半ばころの制作と考えられている。

第2幅



親鸞聖人絵伝(しんらんしょうにんえでん)(万福寺所伝[まんぷくじじょでん])6幅
絹本着色 南北朝時代・14世紀 京都・西本願寺蔵
掛軸に親鸞の生涯を描く「絵伝」は、絵巻物形式の「伝絵」の絵の部分だけを抽出(ちゅうしゅつ)したもので、時間をおって画面下から上へと描かれる。この「絵伝」は甲斐(かい)国等々力(とどろき)万福寺に伝来していたもので、親鸞が善光寺に参詣している様子など、ほかにはみられない独特の場面が織り込まれている。
(展示期間:3月17日〜4月17日)
歎異抄(たんにしょう) 蓮如(れんにょ)筆 2巻
紙本墨書 室町時代・15世紀 京都・西本願寺蔵
親鸞の没後、関東の門弟のあいだで、もともとの教えとは異なる見解が生じたことをなげいて書かれた親鸞の法語録(ほうごろく)。著者は常陸(ひたち)国河和田(かわだ)の唯円(ゆいえん)だとされている。これは蓮如筆の書写本で、現存する最古の写本である。第三条「善人ナヲモテ往生ヲトク、イハンヤ悪人ヲヤ」の一節はつとに有名である。
そのほか主な出陳予定

親鸞筆十字名号(三重・専修寺)、親鸞筆八字名号(三重・専修寺)、親鸞筆六字名号(京都・西本願寺)、鏡御影(京都・西本願寺)、安城御影(正本・副本/京都・西本願寺)、◎熊皮御影(奈良国立博物館)、親鸞御影(左向/三重・専修寺)、親鸞聖人絵伝(愛知・願照寺)、観無量寿経註(京都・西本願寺)、阿弥陀経註(京都・西本願寺)、◎加点本浄土論註(京都・西本願寺)、浄土三経往生文類(京都・興正寺)、◎唯信鈔(三重・専修寺)、◎一念多念文意(京都・東本願寺)、◎尊号真像銘文(三重・専修寺)、◎見聞集(三重・専修寺)、◎浄肉文(三重・専修寺)、太子和讃(京都・東本願寺)、浄土文類聚鈔(京都・東本願寺)、◎親鸞聖人書状類(京都・西本願寺)、親鸞聖人消息(京都・東本願寺)、◎慈信房善鸞義絶状(三重・専修寺)、□親鸞聖人坐像(三重・専修寺)、◎親鸞聖人坐像 (新潟・西照寺)、◎本願寺聖人伝絵(康永本/京都・東本願寺)、恵信尼絵像(京都・龍谷大学)、◎恵信尼書状類(京都・西本願寺)
国宝 ◎重要文化財 □県指定品 ○市指定品

降誕会/ごうたんえ

 きのう浦上駅の近くで、白い象に花飾りのついた花御堂を載せた車が走っているのを見かけました。
そうだ、4月8日は『釈尊降誕会/しゃくそんごうたんえ』です。
わたしも子供の頃、日曜学校の行事で白象に載った花御堂を牽いて回ったことがある。
しかしあのころはなんだか気恥ずかしい思いでした。

 読書「釈迦は紀元前566年の花の盛り、ルンビニー園の無優樹(むゆうじゅ)のもと、釈迦族の王スッドダーナの后、摩耶夫人(まやぶにん)の※右脇から誕生した。生まれてすぐに7歩あるいて、右手で天を指さし、左手で地を差して「天上天下唯我独尊」と言った。そして王子はゴータマ・シッダールタと名づけられた。」花祭りの日にこう語る父の話を聞いたことがあった。

何とも不思議な気持ちになった記憶があります。ただそのまま聞いているだけでは荒唐無稽な神話だと嘲笑におわるのであろうが、記録されたこれらの物語はいったい何が語られているのだろうか。

 その後、仏教青年会で※八相成道(はっそうじょうどう)ということや、釈迦の伝記が話題になったり、大学の仏伝講読で学んだりしているうちに、ああいう記述には深い仏教の道理というものが語られているということを知ることになります。

 経典に記録されているところはといえば、まづ釈迦は人間界に生まれる前、※兜卒天(とそつてん)や※須弥山(しゅみせん)という天上界の神の宮殿で、神々に説法していた。しかし下界の菩薩が涅槃の雲にはいったので、摩耶夫人が白い象の夢を見る機会を待って夫人の胎内に入られたという。
 これは何か、釈迦の誕生ということは、迷える衆生に阿弥陀仏の本願を説くことが、出世本懐であるということをほのめかすことに、神話的造意があったと言われています。
 
※七歩あるいたということは、造った罪の報いによって迷界に堕ちて経巡る人間の現実そのもの、すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻の迷いを超え過ぎることを示しています。
 さらに天地を指差し、「天上天下唯我独尊」と言ったというのは「無上尊」といって、六道輪廻する人間存在である自分に目覚め、その事実の自分に帰ることができたとき、はじめて独立者となることができるということを語っています。

特に現代人は人間中心主義の傾向がつよく、「人間は万物の霊長」であって、科学的知恵によっていまや人間は何でもできると思っている人は意外に多いようです。
ほんとうにそうでしょうか。この※驕慢心(きょうまんしん)が行き詰まりの元なのではないか。

 歎異抄の最後のところに、人間というものは※「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の※凡夫」であると書かれています。これが事実なのではないだろうか。またその次には釈迦の「無上尊」の宣言が高らかにつづられています。
 すなわち「※火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごとまことあるなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」です。   
                         住職 記

新入学児お祝い会/

今日は4月1日。エイプリルフールです。
また、今日は親鸞聖人の誕生日でもあります。これは本当。




本堂には新しく小学校にあがる子どもたちが集まってきました。
今日は新入学児お祝い会。この会はずいぶん昔から萬行寺婦人会の恒例行事として4月1日に行われています。萬行寺婦人会は去年、役員を一新し新体制で運営を行っています。これが新役員になって初めての行事です。この行事はおそらく40年以上は続いているのではないかと思います。昨今は少子高齢化といわれて久しく、我々世代のベビーブームを境に新入学児の数もずいぶんと少くなってきました。それでも今年は新役員さん方のご尽力もあり、例年より多い参加となりました。かつて新入学生として参加した人が親となって子どもを連れてくるようになりました。これから日曜学校にきていただけるとなおいいかなと思います。
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