彼岸(ひがん)とは、一般的には春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。 また、この期間に行われる仏事(彼岸会)のことをいいます。
元々は中国から伝わった習慣でしたが、海を渡って日本に伝わった後、中国の先祖崇拝の習俗と混ざり合い、いつの間にか祖先を祀(まつ)ったり追善供養する行事へと変化していきました。
彼岸は古いインドのことばでParamita(パーラミタ)といいます。日本語に翻訳すると「波羅密」(はらみつ)となり、英語では「Parfect」というのがそれにあたります。つまり仏陀(ブッダ)の覚り(さとり)のことを指しています。仏陀という呼び名は覚者(かくしゃ)という意味があり、これは「修行を完成させた者」または「真理に目覚めた人」ということです。
彼正式には「到彼岸(とうひがん)」(彼岸に到る)と謂われていますから、仏陀のさとりである涅槃(ねはん)に到るために修行を行う日。
つまり仏道修行を行うための行事と受け止めるのが素直な受け止めではないかと思います。
修行は元来、仏陀(覚者)になるために行うものです。その最終段階が釈尊が到ったといわれる「涅槃」とよばれる境地であるといわれてます。
ブッダを目指して菩薩(道を求めるもの/修行者)たちは修行を行うのですが、そこには6つの実践徳目があります。これを六波羅密といいます。この六つの波羅蜜行の徳を蓄積して、遠い未来の生において一切智の正等覚者として無師独悟するのだそうです。
布施波羅蜜 - 檀那(Dāna ダーナ、だんな)は、分け与えること。dānaという単語は英語のgiveに相当する。
具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)など。檀と略す場合もある。
持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。
在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
あるいは怒りを捨てること(慈悲)。
精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
段階としては四禅・四無色定・九次第定・百八三昧などがある。
智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、物事(主に四念処)をありのままに観察する「観」(毘鉢舍那 vipaśyanā)によって、思考に依らない、本源的な智慧を発現させること。
七高僧の第一の師である龍樹菩薩は『宝行王正論』で
布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」
という3つのカテゴリーに分け、「自利・利他・解脱」の三つに尽きると解釈しています。これは大乗仏教独自の説であるといわれています。
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初日の法話:若院
(法話資料)
1 称名念仏ということ
仏身をみるものは仏心をみたてまつる。仏心というは大慈悲これなり。(観無量寿経)
安心決定鈔末
称は御名をとなふるとなり、また称ははかりというこころなり。はかりというはもののほどをさだむるとなり(一念多念文意)
称(稱)・・・・1 となえる。たたえる。 →唱えるではない。(導くという意味=自力)
2 目方をはかる。(はかりを手であげる形の字)
3 つりあう。名付ける。呼び名。
名・・・・阿弥陀仏のこと。名号
念・・・・・心に深くとどめて思う。
常に心の中にあって離れないおもい。
常におもいつづけること。
いつまでもおもいつづけること。
口にとなえる。口を大きく動かさずに低い声で口ずさむ。
解字
心+今=常に思う意。
仏・・・・・・仏陀の意。覚った人(覚者)
(余談「ほとけ」は、浮屠家(ふとけ)がなまったもの。卒塔婆が変化したものともいわれている。)
2 念仏の利益とは?
◯まず『利益』ということ
例え)車の利益とは難でしょう。→一度にたくさんの人を楽に素早く移動させることが出来る。
しかし、その利益は車に乗らないと利益をいただけない。それと同じように、念仏も申してみないとその利益はいただけない。
◯では、念仏の利益とは?
念仏するものを阿弥陀如来が救ってくださる。
※念仏の声を聞くと、その人に念仏することを思い出させるはたらきや念仏申すことを忘れていたことを知らせるというはたらきもあります。
<念仏の種類>
◯称名念仏/憶念念仏
善導は憶念の念仏は絶えず称名することによって仏恩を臆念できるので、憶念念仏は称名念仏の中に入っているとし、称名念仏することを勧めた。
◯観想念仏
観無量寿経に説かれる観想のこと。
善導は観想の方法で仏の相を思い浮かべるのは難しい方法で、凡夫が往生するには称名しかないと説いた。
<真宗の念仏修行ではないもの>
◯壇波羅密の行=瞑想を繰り返して、仏の相を脳裏に刻む修行
(称名念仏はこれではない)
a、仏を憶念するとは?
<法蔵菩薩の物語>
遠い昔、定光仏(錠光仏/燃燈仏)という仏がこの世に出られ、量りしれない人々を教え導いて覚りに至らしめたこの世を去った。その教えは何千年も何万年経っても信じ続けられたが、ついに誰もそのことを語る者もいなければ聞いたこともない時代になってその教えは滅びた。
そのようにして次々に五十三の仏が人々を教え導いては去っていった、そうして最後に世自在王仏という仏がこの世界に出給うた。
その時代の国王であった無諍念王という国王は、仏の教えをきいて大変喜び、その教えに説かれている真の道を求める心を興し、国を捨て王位も捨て、欲と思われるものは全て捨て沙門
(出家者)となり、名を「法蔵比丘」改めた。かれは世自在王仏のもとで厳しい修行に明け暮れた。そのすぐれた才能と知恵は世に及ぶものがなかった。ある時、法蔵となった無諍念王は世自在王仏のそばに行きこういわれた。
「世尊、わたしは真の教えを覚りたいと願っております。どうか私のためにその教えをお説きください。わたしはその教えのままに道を修め、生きることに苦しむ全ての者をわたしの浄らかな国に生まれさせ、一人たりとも見捨てずに救いたいと願っているのです。」
そう申し上げると世自在王仏は法蔵菩薩に次のように応えた。「その仏国土を建てることは汝自ら知ることが出来るであろう。」と。
次いで法蔵菩薩が申し上げた。「世尊よ、このようなことは仏のような眼を持っていないわたしには広く深くわかる世界ではありません。どうかこのわたしに広い仏国土の世界をお説きください。」と深々と頭をたれた。
そうして世自在王仏は、法蔵菩薩となった無諍念王の願いが仏になるべき菩薩と知りこういった。
「法蔵よ喩えば人がいてその人が大海の水を全て汲み出そうとする。そのためには量りしれない年月がかかるであろう。しかし、そのことを常に忘れず励み続けるならば、遂には汲みほし、その底にある宝を取り出すことができるであろう。人がもしこのように心を専らにして道を求めることを止めないならば、必ずその願いを果たすことであろう。」と、仰せられ彼のために二百十億の仏の国々の相を顕してつぶさにその違いを説いた。
法蔵菩薩はこれらの浄らかな国々をくまなくみて、世に超え勝れた大いなる願いを建て、そのことをどのようにしたら成し遂げられるだろうと五劫という長い間思惟に思惟を重ねついに四十八の本願を説くにいたった。
生きることに悩み苦しむ人々とは我々のこと。未だに法蔵菩薩は我々のために修行をしてくださっている。その物語を仏像や絵像で形として現したものがご本尊の阿弥陀如来像である。
真実信心の称名
定散自力の称名 自力称名の人はみな、仏智疑惑の罪により、七宝の獄にいましめり
2 仏を観察する
(仏身を観ずるをもってのゆえに、また仏心をみる。仏心というは大慈悲これなりp106)
合掌礼拝をする時は下を向かない。下を向かないということは目を閉じないということ。ではどこを見るのか?それは仏を見る。仏の姿はどのようになっているのか、どのような形なのかどのような姿をしているのか。よく観察しなければいけない。(真身観)
<第十七願> 諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願
設我得佛、十方世界 無量諸佛、不悉咨嗟 稱我名者、不取正覚。
【書き下し】
設い我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
5、助業と正定業
<総結三選の文> 行の巻 p189
『選択本願念仏集』源空集 に云わく、南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす、と。 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上
<安心決定鈔>p949
念仏というは、かならずしも、くちに南無阿弥陀仏ととなうるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまいけるものを、という信心のおこるを、念仏というなり。さてこの領解をことわりあらわせば、南無阿弥陀仏というにてあるなり。