毎月25日は定例法要(蓮如上人御命日)です。

彼岸は終わりましたが、今日も法要があります。
実質は彼岸ではありませんが、彼岸に行われる法要であることは間違いないでしょう。
ということで今日は蓮如上人御命日法要。
一般的に真宗の慣例として定例法要は前門首の御命日やその寺院の全住職の月命日に法要を勤めるとになっています。各寺院での取り組みの形態や地域性もあるので一辺倒にはいえませんが、どなたかの祥月命日や月命日に当たる日を仏法のご縁にして法座が勤まっています。
萬行寺においては『真宗再興の祖』の御命日に法座をひらいて広く真宗の教えに出会う機会をと願っております。

今日の法話は若院です。
これまで浄土和讃の中の『大経和讃』のお話をしてきました。今回の和讃は

弥陀の大悲深ければ
仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏誓いたり


という和讃のお話でした。
この和讃には、いくつか誤解を招きやすい表現が含まれていますのでそこのところをどのようにお話をすればいいのか
難しいようでした。

秋季彼岸会/御満座

今日で2010年度(平成22年度)秋季彼岸法要はこれで御満座となります。
明日は定例法座、蓮如上人ご命日ですので法要としては明日までです。
今日の御満座は住職の一時退院が急遽決まり、法話を行うこととなりました。

お話は仏教の基礎の基礎。『老病死』。これは人間の永遠のテーマではないでしょうか。
人間が”死”という概念を持ったときから死ははじまったといわれます。死という概念が生まれなければ死は死ではなかったはずです。老いることも病に伏せることも死することによって解決をするのですが、それが受け入れないから苦しむのです。
今回はここから仏教が始まったといわれる『四門出遊(しもんしゅつゆう)』のお話です。
これがやはり仏教の原点ではないでしょうか。
今回、入院にあたって感じたことや、考えたことを交えお話下さしました。

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愚かな凡夫は自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消え失せてしまった。                   お釈迦さまの言葉
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四門出遊の物語

お釈迦さまが太子でいらっしゃったころは、物思いに沈む性質でした。父の浄飯王(じょうぼんおう)は心配されて、何とかして陽気にしなければならないと、ある日カピラ城を出て野外へ遊びに出されました。
 太子は馬車に乗って東門から野外に出られましたが、路傍に髪も白く、身体は枯木のようにやせ衰え、杖にすがって背中をまげ喘(あえ)ぎながら歩いている、見る影もない哀れな人をご覧になり、御者に「あの人は何者か」と問われると「老人です」と答えました。「私もあのようになるのであろうか」と聞かれると御者は、「生あるものは貴(とうと)いものも、賎(いや)しいものも、この苦しみを免(まぬが)れることは出来ません」と答えました。
 太子は、「生れるということは何とした禍(わざわ)いであろうか」と、ものうい、つらい気持ちになり、ふさぎ込んで遊楽の楽しみもなくなり、直ちに御者に言いつけて馬車を王宮に帰されました。
 別の日には、南門から城を出られましたが、路傍に骨もあらわにやせこけた男の人が、黄色い皮膚に大粒の玉のような汗を流して、息もせわしく、苦しみ悶(もだ)えて打ち倒れているようすをご覧になり、太子は、その人が病人であることを聞かれ、「私もあのように病気になることがあるであろうか」と問われたところ、「人の身体が調和を失なう時には、どんな人もこの苦しみを免れることは出来ません」と答えましたが、太子は憂うつな気持ちで、馬車を直ちに王宮に帰らされました。
 また、別の日に、太子が西門から城を出られた時には、道に葬(とむら)いの輿(こし)をかついで、嘆き悲しみながら送って行く一行に逢われ、「ああ、私もあのようになるのであろうか」と問われ、「生ある者は必ず死なねばなりません」という答を聞かれて、人生の苦悩と世の無常の痛感され、太子はこの日も馬車を帰らされました。
 次の日、北門から城を出られた時には、褐色の衣をつけ、髪を剃り、鉢を手にして威儀厳(いぎおごそ)かに歩いて行く人がありました。御者に「この異相の者はどんな人であるのか」と問われ、「出家の人」と知って、太子は馬車を下りてお礼をされ、「出家にはどのような利益があるのか」とお尋ねになりました。「私は世の老病死の無常を見て、これを解脱しようと思い、恩愛を捨てて道を修めています。正しい教えによって、慈悲をもって衆生を救うのが出家の利益です」と答えました。太子は、狂喜し、たちまち生気をとりもどし、「人間世界にこれに勝るものはないであろう。私も家を棄てて道を修めねばならぬ」と仰せられて、出家の人に礼をして、この日は、馬車に乗って林園に入り、いろいろの遊びに一日を過ごされました。
 これが出家の動機を示す有名な「四門出遊」の物語ですが、29歳の年に出家して修行の旅に出られ、6年の苦行生活の後、35歳の12月8日に正覚を開かれました。これを成道(じょうどう)されたと言います。

ブッダは「無常」を発見したと言われています。
世の中に起こる全ての物事は皆常に変化していて、「常」として留まっていることは無い。

いくら微動だにせず、息を殺していようとも心臓は動き、血液は体の内部を循環し、生命を維持しているのです。「おぎゃー」と生まれてから、たった一時も休むことなく変化し続けているのです。

生物に限ったことではありません。どのような頑強な構造物も、自然界にある山や海だって、いや宇宙の中のどこを探しても「無常」でないものは存在しないというのです。

それでは、この宇宙をもしも何らかの生命体が創造していたとしたらどうでしょうか。その生命体ですら「無常」の支配から逃れることはできないのです。

神や仏ならどうでしょうか。ブッダの「無常」は何の例外もないのです。永遠不滅ということはもはや机上の空論なのです。

「無常」という概念そのものが消えて無くならない限り、「無常」を越えてあり続けることは不可能です。

そして、その「無常」を人に当てはめてみた時に、「生老病死」(しょうろうびょうし)という言葉が出てきます。「生老病死」はいわゆる四苦八苦(しくはっく)という時の、「四苦」のことを言います。

上記の「四門出遊」は、その四苦を初めてブッダが目の当たりにして、出家の動機になった話として有名です。

さて、これほどまで全ての物事が逃れられないと言う「無常」、つまり「生老病死」に対して、

1.なぜ生まれたのだろう
2.なぜ老いるのだろう
3.なぜ病気になるのだろう
4.なぜ死ぬのだろう

という疑問をもつことはある意味当然なことです。ただあまりに疑問の域を越えて、悩み続けるとなると本人にとっては大問題です。

1〜3ついては、まだ救いがあります。なにしろ経験者が大勢いますから、それぞれの言葉に耳を傾けるのがよいでしょう。

ところが4の「死」に関しては生存している経験者がゼロということで、皆目検討がつかないことなのです。

他人の死を見る時、あるいは残された家族のことを考えたとき、悲しみや同情や哀れみといった感情が起こります。その時に思って下さい。

「なぜ人は死ぬのだろうか」
その答えは、皆同じなのです。

秋季彼岸会4日目/中日



法要の真ん中の日を中日(ちゅうにち)と呼びます。彼岸は一般では春分と秋分を中日とした前後各3日を合わせた7日間のことをいいますから、ちょうど今日が中日に当たります。萬行寺の彼岸会は5日間ですので明日で終わりになります。気候的にもいいことと中日は秋分の日で休日ということもあり、一番参詣が多い日です。

坂田先生の法話も昨日でおしまい。今回の彼岸は住職が急遽入院したということもあり、少々大変なこともありましたが、おかげでずいぶんと鍛えられたように思います。
さいわい住職の入院も思ったよりはかからず明日の御満座には戻って法話をするそうなのでと人書く一安心。みなさんにご心配をいただきました。

今日の日中は若院の法話。初日に引き続き称名念仏するということのお話です。


逮夜は萬行寺役僧の此松くんが初めて本堂で御法話します。

秋季彼岸会/3日目

2010年秋彼岸法要

人間の歩み 〜善導大師の人間観〜

 真宗の教えの伝統の中で人間をどのように観てきたかということについて、善導大師は「西に向かいて行かんと欲する」(二河白道の喩/真宗聖典p219)ものだといわれています。西というのは真実の国である浄土を表しています。一歩一歩浄土に向かって確かに歩んで行っている。真実の国に生まれたいと願い真実を求めながら歩きつづけるものを人間とよぶのだと善導大師はいわれるわけです。私ども人間は有志以来そうやって人間になりたい本当の人間になりたいと歩みを続けてきたのです。その歩むべき道を「汝らが欲している世界はこのような世界ではないのか」と私たちに具体的な世界として明示してくださっているのでしょう。


先祖とは私たちにとってどういう存在か

ですから我々が心の底から願っている人間成就の道を我々の思いさえも届かない深いところから見つめ、我々の思いを超えた深い如来の願いの中で我々のいのちは育まれているという意味があるのに、そういうことに心ひらかず、耳をひらかず、目を開かず生きているという現実の中に我々は放り出されている。そういう阿弥陀の精神に呼応しながら生きて行く生き方を表現したどたどしくあらわしながら、遅々たる人類の歩みの中に何億年・何万年という有志以来のなかにそういう願いを我々の先達は育ててきたのではないでしょうか。それがやっと届けられているその灯火を私たちはこれから生まれてくる子どもや孫たちに伝えて行かなければならない。こういうことがあるのではないかと思います。
こういう言葉があります。「亡き人を案ずる私が、亡き人から案じられている」我々が亡き人を案じているということが我々の意識だけれども、本当は亡き人は我々のことを心配し続けているということがあると思います。案じられているということの尊さに目を開くためにいわれているのですが、仏事を行う時に皆さん方は喜んでなさっていますか?終わってしまうとこれで終わったと安堵して終わっていませんでしょうか。これはつまり自分の思いを満足させ、自分の気持ちを整理し、自分の気を休めている。そして自分の思いを叶えて落ち着いているという心なのではないでしょうか。そういう風に仏事を行って「これで死んで行ったばあちゃんもじいちゃんも満足するだろう」と、そんな言い方を聞いたことはありませんか?そういう風に教えをきいているわけですよ。聞いている耳は自分本位な根性に立っているわけです。そういうものから土起立して、離れて、向こう側から実はわたしが願われている。問われている精神に立つということが自立するということなのではないかと思います。




人間は豊かな気持ちで一生を終われるかどうかということが人間の課題だろうと思います。
ところが豊かな気持ちで一生を終わるということを勘違いしないようにしなければいけませんね。どう勘違いするかというと、周りには子どもがいて子どもたちには迷惑をかけずに、何の不自由もなく不安もなく、しかも気持ちよくあの世に送ってもらうことが豊かな気持ちだと思っている。そのようなことでは満足できないような問題を我々は抱えているのです。そのくらいのことでは人間が本当の人間として実は生きたとはいえないことを我々は実は望んで満足しようとしているんですよ。思いの通りになるようなことくらいでは人間が人間としての本当の慶びを持てないのではないかと思います。そんなことでは人間の存在は計ることも出来ないし、もちろん本当の意味で満足はできない。人間存在が心から求めていることはもっと大きく深いものですよ。

豊かな気持ちで一生を終われるということ。これは念仏を申しながら阿弥陀の浄土にまいらせていただく以外に道はない。真実の教えに出遇い、その永い伝統の中にわたしといういのちが恵まれ、この教えに出遇って生きることが出来るということがまことに尊いことであったということをあらためて感じ取るということが大事だと思います。
人間の歩みは一歩一歩踏みしめて行くのでしょうが、やはり遅々たる歩みだと思います。私たちの一歩前を歩んでくださっている人がいるということはどんなに励みになるかということを思います。浄土という教えはあなたたちが拠るべき国がひらかれていますよと一歩一歩後ろからも押してくださる。そして前空手を差し伸べて導いてくださっている。その両方の中に自分が立っている。そのことを思っているわけであります。

秋季彼岸会/2日目



法話:坂田智亮師(福岡県みやま市 法讃寺住職)


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人間とは何か 〜人間が人間であることの根拠を知る〜


彼岸法要とは、いわば「浄土に生まれたいと願う一週間」。
わたしたちは浄土に生まれたということを願い続けることが自分がこの世界に生まれたことの意義として明らかになるのです。または『願生浄土』という道は、我々が生きたことが生きたこととして成就する道なんです。
この身はいつ終わるかは解らない。しかし浄土に生まれるということが自らの人生を完結していく唯一つの道なんだと受け止めて生きている人にとっては、浄土というはたらきは我々にとって、いかに理性と知性と計らいと分別の狭い世界観の中で悩み苦しみもがきながら浄土という真実世界から遠くはなれた此岸(=穢土)という世界でウオサオしながら生きていることを知らされるという相対関係になっているわけでしょう。そういうことがわたしは大事なのではないかと思います。だから「浄土に生まれる」ということは、自分がどのような世界の中でどのようにして生きているのかという自覚の問題なんだといわざるを得ません。

現代という時代に『彼岸』とか『此岸』とかいう言葉によって紡ぎ出されるような世界観が見失われていることが残念だと思います。これは現在を生きている我々が人間として生きている根拠を喪失しているということに他なりません。

仏教・真宗といわれる教えはその宗(かなめ)を明らかにしようとした歴史をもっている。だから宗教という問題はとても大事なんです。宗教の”宗”は「むね」とか「もと」などと読む。我々の人生を貫いて支え続けているような宗(かなめ)。扇子も要が大事でしょう。少々破れていても要だけがしっかりしていれば扇子としての役割を果たせるでしょう。それと同じで”宗”ということをはっきりさせることによって人生の問題や人生そのものの問題がハッキリしてくる。それがはっきりすれば、いつ死んでもいいしいつまで生きてもいいという世界がひらけてくるわけです。

 私たちは人間として生まれ、そして生きていると思っていますが、私どもは人間を人間として生み出し、人間として生きている根源が明らかにならなかったならば、この一生を簡単に終われないのでしょう。だから苦しむんですよね。そういうことを教えられるはたらきに出遇えなければ、我々は結局ウロウロして「何のために生まれてきたのか」「何のために生きて来たのか」そのことがハッキリしないままに終わらなければならないということになるでしょう。それを明らかにしようというのが『宗教』ということなんです。

『浄土の真宗』という教えは、浄土という教えによってその宗(かなめ)を明らかにする道なんだということが彼岸という法要で願われていることだと思います。

秋季 彼岸会 /初日



彼岸(ひがん)とは、一般的には春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。 また、この期間に行われる仏事(彼岸会)のことをいいます。
元々は中国から伝わった習慣でしたが、海を渡って日本に伝わった後、中国の先祖崇拝の習俗と混ざり合い、いつの間にか祖先を祀(まつ)ったり追善供養する行事へと変化していきました。

彼岸は古いインドのことばでParamita(パーラミタ)といいます。日本語に翻訳すると「波羅密」(はらみつ)となり、英語では「Parfect」というのがそれにあたります。つまり仏陀(ブッダ)の覚り(さとり)のことを指しています。仏陀という呼び名は覚者(かくしゃ)という意味があり、これは「修行を完成させた者」または「真理に目覚めた人」ということです。
彼正式には「到彼岸(とうひがん)」(彼岸に到る)と謂われていますから、仏陀のさとりである涅槃(ねはん)に到るために修行を行う日。
つまり仏道修行を行うための行事と受け止めるのが素直な受け止めではないかと思います。

修行は元来、仏陀(覚者)になるために行うものです。その最終段階が釈尊が到ったといわれる「涅槃」とよばれる境地であるといわれてます。
ブッダを目指して菩薩(道を求めるもの/修行者)たちは修行を行うのですが、そこには6つの実践徳目があります。これを六波羅密といいます。この六つの波羅蜜行の徳を蓄積して、遠い未来の生において一切智の正等覚者として無師独悟するのだそうです。

布施波羅蜜 - 檀那(Dāna ダーナ、だんな)は、分け与えること。dānaという単語は英語のgiveに相当する。
      具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)など。檀と略す場合もある。
持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。
      在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti' クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
      あるいは怒りを捨てること(慈悲)。
精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
      段階としては四禅・四無色定・九次第定・百八三昧などがある。
智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、物事(主に四念処)をありのままに観察する「観」(毘鉢舍那 vipaśyanā)によって、思考に依らない、本源的な智慧を発現させること。

七高僧の第一の師である龍樹菩薩は『宝行王正論』で
布施・持戒 -「利他」
忍辱・精進 -「自利」
禅定・智慧 -「解脱」
という3つのカテゴリーに分け、「自利・利他・解脱」の三つに尽きると解釈しています。これは大乗仏教独自の説であるといわれています。




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初日の法話:若院

(法話資料)

1 称名念仏ということ 

仏身をみるものは仏心をみたてまつる。仏心というは大慈悲これなり。(観無量寿経)
                                      安心決定鈔末
称は御名をとなふるとなり、また称ははかりというこころなり。はかりというはもののほどをさだむるとなり(一念多念文意)

称(稱)・・・・1 となえる。たたえる。    →唱えるではない。(導くという意味=自力)
         2 目方をはかる。(はかりを手であげる形の字)
         3 つりあう。名付ける。呼び名。
名・・・・阿弥陀仏のこと。名号
念・・・・・心に深くとどめて思う。
     常に心の中にあって離れないおもい。
     常におもいつづけること。
     いつまでもおもいつづけること。
     口にとなえる。口を大きく動かさずに低い声で口ずさむ。

解字
   心+今=常に思う意。
仏・・・・・・仏陀の意。覚った人(覚者)
(余談「ほとけ」は、浮屠家(ふとけ)がなまったもの。卒塔婆が変化したものともいわれている。)


2 念仏の利益とは?
◯まず『利益』ということ
 例え)車の利益とは難でしょう。→一度にたくさんの人を楽に素早く移動させることが出来る。
しかし、その利益は車に乗らないと利益をいただけない。それと同じように、念仏も申してみないとその利益はいただけない。
◯では、念仏の利益とは?
念仏するものを阿弥陀如来が救ってくださる。
※念仏の声を聞くと、その人に念仏することを思い出させるはたらきや念仏申すことを忘れていたことを知らせるというはたらきもあります。


<念仏の種類>
◯称名念仏/憶念念仏
善導は憶念の念仏は絶えず称名することによって仏恩を臆念できるので、憶念念仏は称名念仏の中に入っているとし、称名念仏することを勧めた。
◯観想念仏
観無量寿経に説かれる観想のこと。
善導は観想の方法で仏の相を思い浮かべるのは難しい方法で、凡夫が往生するには称名しかないと説いた。

<真宗の念仏修行ではないもの>
◯壇波羅密の行=瞑想を繰り返して、仏の相を脳裏に刻む修行 
     (称名念仏はこれではない)

 a、仏を憶念するとは?
 <法蔵菩薩の物語>
 遠い昔、定光仏(錠光仏/燃燈仏)という仏がこの世に出られ、量りしれない人々を教え導いて覚りに至らしめたこの世を去った。その教えは何千年も何万年経っても信じ続けられたが、ついに誰もそのことを語る者もいなければ聞いたこともない時代になってその教えは滅びた。
そのようにして次々に五十三の仏が人々を教え導いては去っていった、そうして最後に世自在王仏という仏がこの世界に出給うた。
その時代の国王であった無諍念王という国王は、仏の教えをきいて大変喜び、その教えに説かれている真の道を求める心を興し、国を捨て王位も捨て、欲と思われるものは全て捨て沙門
(出家者)となり、名を「法蔵比丘」改めた。かれは世自在王仏のもとで厳しい修行に明け暮れた。そのすぐれた才能と知恵は世に及ぶものがなかった。ある時、法蔵となった無諍念王は世自在王仏のそばに行きこういわれた。
「世尊、わたしは真の教えを覚りたいと願っております。どうか私のためにその教えをお説きください。わたしはその教えのままに道を修め、生きることに苦しむ全ての者をわたしの浄らかな国に生まれさせ、一人たりとも見捨てずに救いたいと願っているのです。」
そう申し上げると世自在王仏は法蔵菩薩に次のように応えた。「その仏国土を建てることは汝自ら知ることが出来るであろう。」と。
次いで法蔵菩薩が申し上げた。「世尊よ、このようなことは仏のような眼を持っていないわたしには広く深くわかる世界ではありません。どうかこのわたしに広い仏国土の世界をお説きください。」と深々と頭をたれた。
そうして世自在王仏は、法蔵菩薩となった無諍念王の願いが仏になるべき菩薩と知りこういった。
「法蔵よ喩えば人がいてその人が大海の水を全て汲み出そうとする。そのためには量りしれない年月がかかるであろう。しかし、そのことを常に忘れず励み続けるならば、遂には汲みほし、その底にある宝を取り出すことができるであろう。人がもしこのように心を専らにして道を求めることを止めないならば、必ずその願いを果たすことであろう。」と、仰せられ彼のために二百十億の仏の国々の相を顕してつぶさにその違いを説いた。
 法蔵菩薩はこれらの浄らかな国々をくまなくみて、世に超え勝れた大いなる願いを建て、そのことをどのようにしたら成し遂げられるだろうと五劫という長い間思惟に思惟を重ねついに四十八の本願を説くにいたった。

 生きることに悩み苦しむ人々とは我々のこと。未だに法蔵菩薩は我々のために修行をしてくださっている。その物語を仏像や絵像で形として現したものがご本尊の阿弥陀如来像である。


真実信心の称名  
定散自力の称名  自力称名の人はみな、仏智疑惑の罪により、七宝の獄にいましめり
2 仏を観察する 
 (仏身を観ずるをもってのゆえに、また仏心をみる。仏心というは大慈悲これなりp106)
合掌礼拝をする時は下を向かない。下を向かないということは目を閉じないということ。ではどこを見るのか?それは仏を見る。仏の姿はどのようになっているのか、どのような形なのかどのような姿をしているのか。よく観察しなければいけない。(真身観)

<第十七願> 諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願
設我得佛、十方世界 無量諸佛、不悉咨嗟 稱我名者、不取正覚。
【書き下し】
 設い我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。  

5、助業と正定業
<総結三選の文> 行の巻 p189
『選択本願念仏集』源空集 に云わく、南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす、と。 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上

<安心決定鈔>p949
念仏というは、かならずしも、くちに南無阿弥陀仏ととなうるのみにあらず。阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまいけるものを、という信心のおこるを、念仏というなり。さてこの領解をことわりあらわせば、南無阿弥陀仏というにてあるなり。                                     
 



彼岸の準備/花立て

今日は一日かかって華をたてます。
大谷派の仏華の基本は池坊の立花となっています。いまでもお寺では「こみわら」をつかって華をたてます。現在では花をたてるには便利なものがたくさんありますが、あえてそれを使わず昔ながらの伝統に則ってたてています。とはいってもなにもかも昔のままではありませんが・・・・。
中尊前と祖師前・御代前。それから余間の二幅。前部で5幅いけます。これだけいけるのに一日がかりです。門徒の華方が朝から本堂に集まってきて華をたてています。
今日は葬儀が入って年忌法事や七日勤めがあるために朝からバタバタしていました。

出来上がりは一部形がまばらなところや基本の通りに出来ていないところも見受けられましたが、それも続けていくうちに少しずつ上達していくのではないかと期待しています。

 これまで先輩方がやってこられた華のたて方を手本とするのではなく、その先輩方が学んだ先生の華のたてかたを手本にすることが大事ではないでしょうか。
くれぐれも我流や自己流を主張せず、あくまで仏国土の荘厳であることに気を配りましょう。
 自分の考えを固定して、「教えてやらねば」という教化者になってしまえば、「自らが学ぶ」ことはそこで停滞してしまいます。
大切なことは自分の考えを固定的しないことでしょう。そのためには自分の心の向かい方はどうであるか問うとことも大事なのではないでしょうか。


 どのようにいけるのがいい華なのか、それはテクニックだけではなく、日頃から自然に生えている草や木の枝振りなどをよく観察し、その心を知ることが大事でしょう。草木が生えて太陽に向かって伸びるままにいけるのが一番いいのではないかと思います。枝はどうなって生えているのか、葉っぱはどの向きで生えているのか、幹はどうなって生えているのか、草花を細部までよく観察しましょう。
また、仏さまの花を生けるということはどういうことなのかと思索を進めることも大事なことのひとつでしょう。

花や草や葉っぱに教わるのです。仏華は「自力」ではなく、「他力」でいけましょう。(なんちゃって・・・楽しい

明日もまた葬儀です。

彼岸の準備/お磨き

今日は「お磨き」です。
今回は日並地区の担当です。


仏具を磨くのは大切な仏事です。本来ならば、法要の度ごとに、汚れていても汚れていなくてもお磨きをすることが本義でしょうが、忙しいのであれば、せめて自分の親や兄弟や家族の年忌法事を行うときには仏具を奇麗に磨いて仏さまを向かい入れましょう。

お参りにいくところで「何年も磨いていないだろうな」と思うご家庭がありますが、気がけて磨くことをお勧めします。思っているよりも仏具は汚れていますよ。ほったらかしにしているとどれだけこすっても落ちないほどにしぶとい汚れとなります。お参りに伺うご家庭の中には購入してから一度も磨いていないという方もありましたが。お仏飯器は食べ物を盛る道具ですから気がけて磨くようにしましょう。



彼岸会の準備

いよいよ涼しくなり、彼岸の季節になりました。
「暑さ寒さも彼岸まで」と一般的に言われますが、長崎では10月に行われる祭り、『おくんち』がすむ頃までは寒くならないといわれています。確かに彼岸をすぎると、平均気温はぐっと下がりますが、出歩く時は半袖と長袖が両方が必要です。衣替えのタイミングが非常に難しい時期ではありますね。

ということで、明日から本格的に彼岸にむけての準備が始まるわけですが、萬行寺では20日〜24日の5日間彼岸法要が勤まります。みなさんどうぞお参りください。

あしたは『お磨き』です。お磨きというのは、「仏具を磨いて法要を迎えよう」というお待ち受けとして非常に大事な仏事です。


一つ一つ仏具をおろして、明日に備えます。


明後日は仏華をたてに華担当の門徒さんが集まってきますから、花瓶(かひん)もきれいに磨かなければいけません。そのために一つ一つ華を解いていきます。
ちなみに大谷派の仏華は池坊の立花でたてます。


お待ち受け大会の記録紙の発行

夕方はお待ち受け大会 運営委員会です。長崎教区のお待ち受け大会が終わって4ヶ月が過ぎました。そこでもりあがった教区の若手の活動をどのように展開していくか話し合いました。

まず、そのことに取りかかる前にまず総括と点検をしなければ前に進まめいのではないかということになり、お待ち受けの記録として記念誌を発行することになりました。



これからしばらくは編集作業にかかりきりになるかと思われます。