両度のご命日 

毎月28日は宗祖親鸞聖人のご命日として、定例法要が勤まっています。

門徒でない人でも、何宗の人でも、何教のひとでも足が向いたらどうぞおまいりください。

蓮如上人は、毎月両度のご命日は何のための集まりかということについて、御文にこう記されています。

そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。
自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。
しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。
ことに近年は、いづくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。


誤解を恐れずに訳すればこのようになるでしょうか。
毎月両度の集まりの所以は何のために行うのか、自らの浄土へ生まれるための信を得るためである。むかしから今にいたるまで毎月の寄り合いはあちらこちらにあるけれども、これまで信仰告白を語りあうような集まりはやはりない。ことに最近の寄り合いは、酒や茶や飯を食べるだけ食べて、かえって行くだけである。これは皆を仏前に座らせるための手だてであって仏事の本意ではない。

ちょっと、逸脱した部分がありますが、このような見かたがあってもいいだろうかと思います。
せっかく仏法をご縁として集まってきている仲間なのですから、ただ酒やお茶を飲んで世間話だけしてかえるようではいけないということでしょうか。また、これは一つの仏教に近づくための手だてであって、酒やお茶を飲んで世間話をするために開かれている集いではないということでしょう。ただ、世間話の中に仏法を聞けなければ行けないと思い立つ機もあることでしょうから、全くそれはだめだとはいえませんし、仏法談義が楽しくはずむことも大事ですから、そのために多少のお茶や酒は必要な時もあるでしょう。しかし、そのことでお茶を濁して、酒やお茶を飲むだけの集まりならば、それは仏法の本意からは逸脱してると言えるのではないでしょうか。

今月の遇願洞

今月から「門主制」について学んでいきます。
発表者は萬行寺若院の亀井攝、教区駐在教導の渋谷です。

門主制について学ぶことにはなっているのですが、一体どこから手をつけていいのか暗中模索の状態です。

相続講という集まりについて

蓮如上人は、門徒の集まりはなんのための集まりかということについて御文で述べられています。その中の5帖目の十二通には超勝寺という寺の門徒に対して、集まりの在り方に対して厳しく戒められています。

そもそも、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第もつてのほか相違せり。
そのいはれは、まづ座衆とてこれあり。いかにもその座上にあがりて、さかづきなんどまでもひとよりさきに飲み、座中のひとにもまたそのほかたれたれにも、いみじくおもはれんずるが、まことに仏法の肝要たるやうに心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞に似たり。
しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、言語道断あさましき次第なり。所詮自今以後はかたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。

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座上にあがってさかずきを勧めて、酒を飲んでお茶を濁すような集まりが、さも仏事であるように思っている人がいますが、はたしてそうでしょうか。

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蓮如上人は、仏法談義は「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰」をすべきであると語られています。
しかし、最近では、家庭からも宗教の話題が消えてしまいました。または会社に行っても一緒に働いている同僚が何宗の信者であるか、何教の信者であるかも知らないということが普通の時代です。
現代では、そういう状態ですから、宗教による差別はさらに深くなり見えなくしてしまいました。見えなくなっているというよりも、宗教のことを沙汰することがなくなり、そのための無知さで見抜く力を失っているように思います。そのために宗教差別は深くなってしまったのです。
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現代では、信心の沙汰をするどころか、御文には、私たちは「いたづらに暮しいたづらに明かして、一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身」であるから、せめて月に一度でも集まって信心の沙汰をするべきであると語られています。
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長崎教区巡回子ども会 in海蔵寺

夏休みが始まり、子どもたちは待望の夏休みで解放感いっぱいです。

今日は、賑やかに日曜学校のこどもたちと野母崎までドライブ。
そうです今回巡回子ども会でおじゃまする長崎教区第1組 海蔵寺(ながさききょうくだいいっそ かいぞうじ)は野母崎の突端、海の見えるところにあります。
長崎教区の寺院一覧

今回でようやく8回目。予定している寺院を全部回ろうとすれば、二年ほどかかります。それでも毎回楽しみにくる子どももありますのでやっている回があるように思います。
少しずつではありますが、子どもの数も安定化してきました。今のところ極端に少ないということもありませんが、極端に多いということもありません。
地道に続けて行けばいいのではないでしょうか。面白いと思えば子どもたちは友達を連れていきたいと思うでしょうし、そうでなければ集まらないとも思います。
この事業は長崎教区の事業となっていますが、集まるおおよそのお寺の子どもたちが長崎市内の子どもたちなので、必然的に第一組の集まりのようになっています。
しかしそれも長崎市内の寺院には、幼稚園や保育園を運営している寺院が少ないこともあり、日曜学校や子供会などを行っていない寺院が多行ことも事実です。またはかつては行っていたけれども、辞めてしまったり、お休みにしたそのままになっているところもあるようです。そのようなことから長崎市内の寺院を中心に寺院を回って児童教化を行うことにしました。

ゆくゆくは他の地区のお寺にも伺って、子供会を開く予定もあります。また、学校が休みの期間に遠い寺院に足を伸ばしてみようかという話も出ています。





8月には時津の先野自然公園でキャンプがあります。それにあわせての歌の練習もしました。指導は和音先生です。





今日は海遊び。天気が良くて海の冷たさが気持ちいい。



大はしゃぎです。結局びしょぬれになってしまいました。



教行信証拝読の会

塵も積もれば山となる。今回で32年と何カ月になるのでしょうか、この教行信証拝読の会。
蝸牛のような速度で前に進みます。
いわば急行列車ではなく、各駅停車の旅。そのほうが様々な風景や景色を楽しむことができますし、キツイ旅のほうがその感慨もひとしおでしょう。
急行列車はただ目的地に着くだけ。その間に何があったかはなかなか分かりにくいものです。

ローマは一日にして成らず。
百里の道も一歩から。
学習は螺旋階段のように、一見行ったり来たりのようですが、実は同じところは通らずにずっと上に伸びていく。このような学習が大事ではないかと思います。
あせらずゆっくりと、それでいてじっくりと根気強く。
これがなかなかできそうでできないことですね。


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