2010.07.28 Wednesday
両度のご命日
毎月28日は宗祖親鸞聖人のご命日として、定例法要が勤まっています。
門徒でない人でも、何宗の人でも、何教のひとでも足が向いたらどうぞおまいりください。
蓮如上人は、毎月両度のご命日は何のための集まりかということについて、御文にこう記されています。
そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。
自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。
しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。
ことに近年は、いづくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。
誤解を恐れずに訳すればこのようになるでしょうか。
毎月両度の集まりの所以は何のために行うのか、自らの浄土へ生まれるための信を得るためである。むかしから今にいたるまで毎月の寄り合いはあちらこちらにあるけれども、これまで信仰告白を語りあうような集まりはやはりない。ことに最近の寄り合いは、酒や茶や飯を食べるだけ食べて、かえって行くだけである。これは皆を仏前に座らせるための手だてであって仏事の本意ではない。
ちょっと、逸脱した部分がありますが、このような見かたがあってもいいだろうかと思います。
せっかく仏法をご縁として集まってきている仲間なのですから、ただ酒やお茶を飲んで世間話だけしてかえるようではいけないということでしょうか。また、これは一つの仏教に近づくための手だてであって、酒やお茶を飲んで世間話をするために開かれている集いではないということでしょう。ただ、世間話の中に仏法を聞けなければ行けないと思い立つ機もあることでしょうから、全くそれはだめだとはいえませんし、仏法談義が楽しくはずむことも大事ですから、そのために多少のお茶や酒は必要な時もあるでしょう。しかし、そのことでお茶を濁して、酒やお茶を飲むだけの集まりならば、それは仏法の本意からは逸脱してると言えるのではないでしょうか。
門徒でない人でも、何宗の人でも、何教のひとでも足が向いたらどうぞおまいりください。
蓮如上人は、毎月両度のご命日は何のための集まりかということについて、御文にこう記されています。
そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。
自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。
しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。
ことに近年は、いづくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。
誤解を恐れずに訳すればこのようになるでしょうか。
毎月両度の集まりの所以は何のために行うのか、自らの浄土へ生まれるための信を得るためである。むかしから今にいたるまで毎月の寄り合いはあちらこちらにあるけれども、これまで信仰告白を語りあうような集まりはやはりない。ことに最近の寄り合いは、酒や茶や飯を食べるだけ食べて、かえって行くだけである。これは皆を仏前に座らせるための手だてであって仏事の本意ではない。
ちょっと、逸脱した部分がありますが、このような見かたがあってもいいだろうかと思います。
せっかく仏法をご縁として集まってきている仲間なのですから、ただ酒やお茶を飲んで世間話だけしてかえるようではいけないということでしょうか。また、これは一つの仏教に近づくための手だてであって、酒やお茶を飲んで世間話をするために開かれている集いではないということでしょう。ただ、世間話の中に仏法を聞けなければ行けないと思い立つ機もあることでしょうから、全くそれはだめだとはいえませんし、仏法談義が楽しくはずむことも大事ですから、そのために多少のお茶や酒は必要な時もあるでしょう。しかし、そのことでお茶を濁して、酒やお茶を飲むだけの集まりならば、それは仏法の本意からは逸脱してると言えるのではないでしょうか。