明日ありと
おもふこころのあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは

お待ち受け大会打ち合わせ in東京

なんだかんだでまた今週も東京です。
今回の訪京は気候もよく、どちらかというとコートがいらないくらい暑い。

今日の訪問は、姜尚中氏(東京大学大学院教授)と三明先生(九州大谷短大副学長)の二者での打ち合わせ。我々は二回目の訪問、三明先生と姜尚中氏は初顔合わせ。どんな打ち合わせになるか多少の緊張とプレッシャーを感じながらの訪問。
とにかく東大にある姜尚中さんの研究室に向かう。

思っていたよりも約束の時間より早く着いたので、東大の側にある『親鸞仏教センター』を訪問。

前回はこちらも東大のすぐそばにある「求道会館」を訪ねましたが、今回はあわてて出て来たこともあって資料整理をする余裕がなかったので仏教センターにお邪魔させていただき、資料をコピーしていただきました。
ここは親鸞フォーラムなどの企画立案をおこなったり、親鸞に関する講演会なども東京の各処で行っている。ここはその事務所。
東京は親鸞聖人に興味がある人はいっぱいいるけれども、真宗教団などの組織に入る人は少ないらしい。そういう人は教えを聞いて都会の雑踏の中に消えていく。まるで砂漠に水をやるような仕事だなあと思いつつも、誰かがそれをやらなければ砂漠の広がりは抑えられない。ともおもう。でも東京で親鸞聖人の教えを聞いた人たちが田舎へ帰ったときに、お寺に行ってくれる縁になるようにと願っている。と事務長の木曽さん。
しょんぼりそれもまた田舎の寺のものとしては大変なプレッシャーをいただきました。
「首都開教はなかなか大変です。」とのこと。そうだろうなあ、とかつて都会に埋もれて生きていた自分のことを思い出してみる・・・・・。
事務長の木曽さんは以前、長崎教務所の所長をされていました。


三明先生との約束の時間ギリギリに赤門前に到着。


とにかく姜尚中さんが忙しく1時間ほどの打ち合わせ。延長はほとんどできないとのこと。
用件を手短に、しかも手際よく進めないと時間がもったいない。

<対談を一部要約して転載>

姜尚中氏>政治と宗教という問題では、親鸞聖人はどのように考えていますか?

三明氏>親鸞聖人は仏教によってこの国を救おうとされた聖徳太子を大変敬っておられます。
また、親鸞聖人の著作である『和讃』の中には、七高僧である中国の曇鸞大師がその当時の皇(=王)に大変敬われていたとういうことを大事にされています。

姜尚中>それから真宗中興の祖といわれる蓮如のことも気になるんですが、私はどちらかというと、蓮如の政治的側面が強い印象をうけますが、そこのところはどうでしょうか。

三明氏>




親鸞を東アジアの共有財産にするべきだとおもいます。これは東アジアの責任だと思います。脱亜入欧で近代化を進めてきましたが今日の状況はこのような状況でしょう。あまりに東アジアの一員だということが気薄な気がするんです。

失業率にしても自殺の問題にしても日本はあるいみ行き詰まっています。このような時代にこそ親鸞の教えが広がるチャンスであると思います。

三明氏>全くそうだと思います。時代の感覚をどう受け止めて親鸞聖人の教えにかえってのかということに関しては、親鸞聖人の教えを学びものとしては大きな問題でもありますし、身の引き締まる問題でもあります。



罪という問題(社会的罪という視点)

ところでみなさんは現在の日本は治安がよくなっていると思いますか?
それとも悪くなっていると思いますか?
実は日本では犯罪の質こそ変わりましたが、犯罪件数そのものは減少傾向にあります。犯罪が多かった頃の約半分近くまで減っていることが警視庁の犯罪白書を見るとわかります。
しかし、その一方ではメディアの犯罪報道の激化により、犯罪率は年々減少傾向にあるにも関わらず危機意識が高まっているといわれています。その現象はオウムのサリン事件以降顕著になっています。

日本ではこの数年、死刑の判決や執行が増え、この十数年厳罰化が進行しています。
また、世界的にいうと刑務所に収容される囚人の数が多くの国々で増加し、「囚人爆発」とも呼ばれる現象がおこっています。それによって暴動や感染症の拡大などの問題が噴出し、いまや世界的な問題となっているようです。日本でも例外ではなく、刑務所の過剰収容も問題になっています。この10年間で死刑囚は2倍増に増え少年による凶悪犯罪が相次いで刑事処分の対象となる年齢は16歳から14歳へと引き下げられました。そういったことがかえって厳罰化の傾向に拍車をかけていると云われています。
それから社会的な現象として、善悪の感覚が二極化してきたことによると分析する人もいます。この善悪の二極化は、やはりオウム事件以降顕著になってきたといわれています。


一方、アメリカでは「スリーストライク制度」という法律を採用している州が多いようです。これは三回犯罪を犯せば三回目は終身刑か死刑といったような大変重い刑罰になる制度だそうです。世界でもっとも受刑者が多いアメリカは全米で230万人。いまや成人の100人に1人の割合にのぼっているそうです。アメリカで受刑者が急増したのは、いまから30年近く前。1980年代のこと、低所得者層が住む地域を中心に南米から安いクラックコカインが大量に流入したためでした。中毒者による犯罪が激増し、この頃から殺人や虐待など凶悪事件の恐ろしさをメディアが盛んに社会問題として伝えられるようになってことに由来しているとみる人もいます。
そうした煽りに呼応して「犯罪者は厳罰に処すべきだ」という世論が高まり、凶悪犯罪でなくても犯罪を3度繰り返すと厳罰に処すという「スリーストライク法」が導入されたということです。それから16年経ちましたが、減るどころか、その数はさらに70%近く増加し、今では収容人数の2倍もの受刑者であふれているそうです。それにともない刑務所内では感染症の多発や、殺人や放火、暴動に発展することも珍しくなく、刑務所の環境は悪化の一途をたどっているとききました。

ということで、現在、世界のグローバルスタンダードは犯罪者への刑罰をより厳しくする「厳罰化」の流れとなっています。
凶悪犯罪を犯した受刑者の多くは、貧困状態におかれ、経済的、家庭的に恵まれない環境で育ち、十分な教育を受けておらず、いわば犯罪を犯さなければ生きていけない状況におかれている人が多いとも言われています。そして、一度服役すると社会復帰は困難だといわれ、再就職もその多くができず、同じ犯罪を犯してまた戻ってくるといわれています。問題はそのような一度犯罪を犯した人を受け入れる社会がないということだろうとも思います。そして、その人はなぜこのような犯罪が起こるのかという根本原因の追究がまず大事なのではないでしょうか。

ヨーロッパにおいては逆に軽罰化の取り組みをしている国が多いそうです。
ノルウェーやフィンランドは厳罰化とはまったく逆の政策を取り、それによって劇的に治安がよくなり犯罪が減ったともいわれています。つまり、「厳罰化イコール治安がよくなる」とは言えず、むしろ逆のことが起こっているというのです。

こうしたなか、世界でもっとも“囚人にやさしい国”として注目されているのがノルウェー。
かつては少年犯罪は再犯率90%にまで達していたそうです。そこで1970年代後半に刑法を抜本的に見直し、犯罪者を社会から隔離するのではなく、逆に社会復帰させるために社会に出す方法が更正を行うことにしたそうです。それには「参審員」と呼ばれる一般の市民が大きな役割を果たしていて、それに選ばれれば犯罪者が置かれた社会状況や家庭状況などを理解し、厳罰を下すことに慎重になるといわれています。「参審員」を経験した一般市民の多くが、犯罪へと追い込まれていった社会的な背景を目の当たりにすることによって、問題となる状況に置かれることで「誰が犯罪をおかしてもおかしくない」「自分と犯罪者は同じ人間に過ぎない」と思い至るそうです。


このことを考えると罪を犯した者に対して厳罰をあたえることがはたして本当に社会を安寧にできる方法なのかという疑問もおこってきます。
日本人が一般的に思っていることは、犯罪をおかす人たちはとても凶暴で邪悪な人たちなんだということです。だから社会から隔離しなければいけないと思ってしまう。これが仮想敵国の論理と同じなのです。
人はみな犯罪者になりたくて生まれてくるのではありません。犯罪者がはじめから凶悪な心を持って生まれてくるわけでもなく、出来うることなら、善良で人を傷つけたりせずに幸せに行きたいと願っているものでしょう。

すべての人間は人間である。こうしたあたり前のことを人は忘れがちで、犯罪者をモンスター化してしまいがちです。人間は「環境の産物」といわれるように、環境によって人生はさまざまに違ってくるのです。個々の犯罪者の固有の素養よりも社会的な環境によるものの方が大きいということを今ひとつ考えなければなりません。


親鸞聖人の言葉で有名な言葉があります。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。
                  <「歎異抄13章」真宗聖典p633〜634>

といわれ、自分の日頃の行いや心がけがいいから人を殺すような犯罪をおこさないですんでいるということではない。
人は環境によっては、生きるためにどのようなことでもしてしまう”業”(ごう)というものをもっているものだ。といわれています。


戒律の疑問

1、戒律について

宗教と呼ばれるものには、信者が守るべきルールがあります。
それを戒律と呼び、宗派や宗教によっては厳しく戒められたりします。
戒律の意味は次のようになります。



・・・・・誓い、【〜しない】
・・・・・ルール、取り決め、規律【〜してはならない】

その中でも最もポピュラーな戒律が五戒(ごかい)といわれるもので、それは五つあります。
五戒の原語はパンチャ・シーラといわれ、現代流に翻訳すると『平和五原則』となります。
これを守ることによって、人間関係などを悪くしないで平和に暮らせる原則ということになります。
        
 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺しません。
          (汚い・不必要・嫌いなどといって殺す心が問題になる)

 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを取りません。
           (自然のものだからタダだから取っていいという考え方が問題)

 不邪淫(ふじゃいん)  みだらな性的関係を持ちません。  
          (ただの遊び・相手も承諾したからということは許されない)

 不妄語(ふもうご)   嘘をつきません。
          (バレなければいいという心が問題)

 不飲酒(ふおんじゅ)  酒を飲みません。
          (酒を飲んでもバレなければ、事故を起こさなければいい心の有り方が問題。)
<その他の戒律>
     不綺語(ふきご)       無駄な噂話をしません。
     不悪口(ふあっく)      乱暴な言葉を使いません。      
     不両舌(ふりょうぜつ)    他人を仲違いさせるような言葉をいいません。
     不慳貪(ふけんどん)    異常な欲を持ちません。
     不瞋恚(ふしんに)     異常な怒りを持ちません。
     不邪見(ふじゃけん)   (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

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<戒律を解く理由>
◎ 人間関係を悪くする。(僧伽を破壊する=破和合僧)
◎ 修行の妨げになる。 (煩悩が増大する)
 


例えば「バレなければ罪を犯してもいい」といってしまえば、自分の心に嘘をつくことになるから、戒(〜しない)を破ったことになる。
心の中で「あんな奴死んでしまえ」と思ったとしても、殺生戒を犯したこととなる。

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<法然上人の疑問>
この戒律の問題に法然上人は疑問を持たれます。「はたしてこれだけのことが自分にできるだろうか、それどころか煩悩を滅そうとすればするほど、煩悩は増大する」と。

ー『選択本願念仏集』による持戒持律の問題ー

もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。
(乃至)
しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり。」


現代語訳
もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破戒や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。
(中略)
阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人びとに平等の慈悲をおこして、あまねく一切を摂(おさ)め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。



<歎異抄での疑問>
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」真宗聖典p634

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひと」はどうなるのだろうか。
そのような人々は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」身であって、罪をつくらなければ生きていくことのできない者、あるいは罪をつくってしまったものはどうなるのか。

お待ち受け大会の打ち合わせin東京

シンポジウムが終わると、次の日は朝から東京行きです。
『御遠忌お待ち受け大会』でパネルディスカッションを予定していますが、パネラーの三明先生(九州大谷短大副学長)と森達也氏(映像作家)の二者打ち合わせです。
コーディネーターの清原さん(崎戸:信行寺若院)と二人で東京へ向かいました。



諸般の事情により、3者での打ち合わせではなく、二者での打ち合わせになりました。

まずは柏駅で待ち合わせ、喫茶店で1時間ほどの打ち合わせ。

読書森>この間、新しい本が出版されました。題は『戦争の世紀を超えて』ですが、そこで考えたことは戦争で人を殺す人たちが、はたして凶暴で邪悪な人たちなのか。
絶対にそういうことではない。ごくごく普通の人が戦争という構造の中で終わってしまってから「なぜあんな凶悪な行為をしてしまったのだろうか」ということを考えるんです。
わたしがオウムのドキュメンタリーを撮ったとき、実感したのはごくごく普通の、普通より善良で優しい感じの彼らがなぜあのような凶悪な行為をしたのだろうということを考えています。
人は凶悪な行為をした人は凶悪な人だと思いたくなってしまうんです。自分と区別するんですね。実はそうではないのではないかということを提案したいと思います。

読書三明>森さん・姜さんの話を受けて、親鸞聖人の教えを学ぶ者としては、まず先ほど森さんがいわれた善意というポイントは歎異抄にもでてきます。
縁が催せばどのようなことでもしてしまうのが我々なんだと親鸞聖人はいわれるわけです。そういったところに沈んでいる問題をまず取り上げなければいけないかなとおもいます。
(以下省略)



観客から声もほしいとのこと、何らかの形でアンケートをとってはどうだろうかという提案などがありました。

まだまだ話はつきませんでしたが、時間もないので今日は一応これで終わりです。


前回の訪京の時にはあいにくの雪に見舞われ、帰りの飛行機が欠航、福岡からJRでの帰崎となりました。
今回は前回ほどでの雪ではありませんでしたがそれでも天候が芳しくなく、長崎空港はまた雪でした。

同朋会運動50周年記念シンポジウム

今日は『同朋会運動50周年記念シンポジウム』です。
約50年前、宗門は戦後復興のなかで、今や体質化した封建体制から抜け出す試みがなされました。
この運動は今でも賛否両論ありますが、それまでの宗門の封建的体制や宗門の戦争責任問題など様々な問題を抱えながら、それらを真剣に考えなければ親鸞聖人の教えは廃れてしまうだろうという機具のもと始まりました。

来年、大谷派では宗祖親鸞聖人の750回忌を迎えます。その翌年がちょうど同朋会運動の50年にあたり、大谷派内の各教区などでも様々な取り組みがされることだろうと思います。

長崎教区でもこれまでの歩みと、総括がされる時ではないかということで、教区内のベテランがそろい、これまでの同朋会運動の流れをシンポジウム形式で語っていただきました。

子ども会巡回



各月で回っている子ども会巡回も今回で6回目になります。
各月なのでこれでちょうど一年たったということになります。まだ始まったばかりなので、まだまだ定着はしていませんが長く続けられるという意味では順調にいっていると言っていいのではないでしょうか。
今回は緑町にある法生寺(ほっしょうじ)です。ここの境内の正面には最近できた商業施設、ココウォークの観覧車が見えます。
今日のお話は前回に引き続き、光永寺の若院さんのお話です。
前回は残念ながら萬行寺の子供たちは参加できませんでした。前回はお釈迦様の青年時代の話で一番有名な「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の話でしたが、今回は「象のお話」でした。
「象」という生き物を見たことのある人が、見たことのない人にどのような動物か説明してみせるのですが、見た人によって様々に違う、どれも本当であってどれも間違っているというお話でした。



その後は、おおきなスゴロクで遊びました。みんなエキサイトして楽しそうでした。

どなたでも参加されて結構です。たくさんの参加をお待ちしています。

3月になりました。

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、まだまだ寒い日が続きます。
これからだんだんと暖かくなるのでしょうが、この寒さを思うと本当に暖かくなるのだろうかと思います。
先月はここ何年かなかった雪がつもり、冬らしい冬だったような気がします。
今月も雪が降るような寒さがあるのでしょうか。

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