蓮如上人御命日/定例法座

毎月25日は蓮如上人・法然上人の御命日です。
萬行寺では毎月定例法座が朝の10時から勤まっています。
25日は和讃をわかりやすく読み解きながらの法話をおこなっています。
なるべく皆さんの分かりやすいように話をいたしております。
どうぞお参りください。

和讃とは、お勤めで読まれる七五調の和歌です。
一般的にお寺や各家庭のお内仏でお坊さんが読まれる漢文の文章のことを全て”お経”と呼ぶことが多いようですが、実は細かく分類があります。
和讃は、和歌形式になっていて、それに節がついていますので、歌になっています。

お経の場合は全て「仏説」という言葉が表題にきます。これはお釈迦様の説法であることを意味し、必ず誰かの翻訳文であることが明記されています。
ですから外国の国の言葉なのです。そういう意味ではそれを聞いて何を言っているのかわからないのは無理もない話だと思います。
読み方はすべて節がなく、ずらずらと棒読みをします。

和讃の場合は著者が親鸞聖人、それに安土桃山時代になって本願寺の18代目の蓮如上人の時代にその時代の流行歌の調子に合わせて作り替えられ、「正信念仏偈」とともに「三帖和讃」が開版され、門徒の朝夕の勤行に用いられるようになりました。そうして現在に至っています。真宗大谷派では伝統的にその時代のものをそのまま伝承されています。

このおつとめは日本の伝統的な形式のものを踏襲していますが、当時の芸能の影響も受けているともいわれています。

宗教には必ず、その宗教施設で行われる儀式に神や仏をなど讃える歌があります。これは世界中のどの宗教にも共通したもので、この「和讃」ももれなくその形式を踏襲しています。
いわば、真宗の賛美歌ともいえるでしょう。わたしたちは新しいものに関心を持つことが多いですが、このような古いものに新鮮さを覚えることも大事だと思います。
古来から日本人はこのようなものを聞いて来たのだということも大事な学習の一つだろうと思います。

この和讃は正確には「三帖和讃【さんじょうわさん】」といわれ、親鸞聖人の著作で、『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』の三編に分かれていて、それぞれが浄土教の歴史や、それを伝えた高僧の物語や浄土の様子を歌ったものがあります。
これは親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という難しい書物をもう少しわかりやすくまとめたものです。ひらがなを用いて読みやすくされたものです。


親鸞聖人は、晩年まで加筆、再訂したといわれています。真跡本は、完全なものは発見されておらず。三重県の高田派の専修寺にある「国宝本」に一部が真跡と認められるだけです。
書写本は数多く残っていて書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なっています。

『浄土和讃(じょうどわさん)』
宝治2年(1248年)頃の著作と言われる。「三帖和讃」の一つ。118首の和讃からなる。

『高僧和讃(こうそうわさん)』
『浄土和讃』と同じく宝治2年(1248年)頃の著作と言われる。『浄土高僧和讃』とも言う。三帖和讃の一つ。親鸞聖人が選定した「七高僧」を讃える119首の和讃からなる。

『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』
正嘉元年(1257年)頃の著作と言われる。三帖和讃の一つ。全部で116首の和讃からなる。

「諸有衆生の御遠忌」

 今日の世界は厳しい不景気による暗い世相の時代です。人口が集中した都会では、倒産する会社が次々に出て、職のない人が路頭に迷っています。若者が住めなくなってしまった農・漁村はますます疲弊がひどく、格差社会は拍車がかかっています。日本では国民のいらだちが積もり積もって政権交代はおこったのですが、国会では「政治と金」の応酬ばかりで国民生活のことには議論が及ばず、国民不在の空理空論がつづいています。これではなかなか政治の立て直しは簡単ではなさそうです。しかし私たち国民はこの娑婆世界に生きてゆくしかありません。そこに仏法を聴聞(ちょうもん)して真実に遇(あ)う必要があるのです。
 さて宗祖親鸞聖人は、中世と云われた混迷深い時代に真実を求めて生きた人でした。「人間はどうすれば救われるのか」の問いを徹底してゆき、ついに『大無量寿経』に説かれた弥陀の本願の教えに遇われました。その経に、人間が救われるには「真実の信心」に依るべきであると説かれていたのです。ところが、その経には〈われわれは弥陀の本願を疑う罪を持った存在である〉ことを自覚せよと説かれている。なぜかといえば煩悩が深いわれわれは〈欲望追求としての幸福〉を求める。そのために自力の〈我見(がけん)〉に執われて如来真実の智慧を軽んじ疑う。その疑惑の罪は深く、罪の報いとして人生が空しい。聖人はこういう問題が提起されている経文を注視されました。そして仏智を疑う罪深き者へ如来は救済の願として第二十願「果遂の誓い(かすいのちかい)」をもって救済を誓われたと説かれている。すなわちこの『経』こそ弥陀の真実と説く浄土真宗の経であるとおさえてくださったのです。
 聖人が青年時代にこの経のことを教えていただいた法然上人をひたすら師として生きようとすれば、時の権力から弾圧を受ける。まったく逃れるすべのない〈法難〉に遇いながら、遠く都を離れた田舎の大衆と共に、〈群萌(ぐんもう)〉の一人として、九十年の生涯を生きぬいた人でした。この浄土真宗の祖師親鸞聖人が一生をかけて綴られた未来世の人間に書き遺された御聖教(おしょうぎょう)の行間には苦悩の生涯のうちに経験した生活の味が感じられます。私たち真宗門徒が子供の頃から聞き覚えた『正信偈』や『和讃』などにも〈苦悩する生活〉において、真実に遇った感動の響きが聞こえます。
 今や全国の真宗門徒は聖人の七五〇回忌を迎えようとしています。この御遠忌をどのように迎えればよいか。かつて五十年前の七〇〇回御遠忌、お待ち受け宗議会の挨拶に、宗務総長であった暁烏 敏(あけがらす はや)師は「私は宗祖親鸞聖人の御法事を申すには、聖人の最も喜ばれることをするのがよいとおもいます。聖人の最もおすきなことは、たくさんの人をお浄土へ送り届けることであります・・・・。」このように述べられたといわれます。この言葉は単に大谷派一万カ寺の僧侶、百萬の門徒だけにとどまらず、二十億の全世界の「十方衆生(じっぽうしゅじょう)に」向けて発せられたものであることがこのあとの数々の言葉にこめられています。すなわち浄土真宗という仏道は「諸有衆生」の自覚と救済の教えであります。ニンゲンが真の人間たらんとする道であります。                    

        平成廿二年二月記    萬行寺住職 亀井廣道
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お待ち受け大会実行委員会/全体会

お待ち受け大会もいよいよ具体的な活動内容を詰めていく段階になりました。
そこで運営委員会を開いて当日の執行体制の骨子を作成したものを元に執行形態をつくっていきます。


今日は全スタッフが集合して当日の執行体制つくりを行いました。


お待ち受け/全体会1

お待ち受け/全体会2

今日はテレビの撮影も入りました。撮影された映像は3月13日朝7時15分よりNCC文化放送の『びたみん』という番組で放送される予定です。



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児童教化連盟会議

今日は教務所にて、児童教化連盟(通称じれん)の会議です。

 毎度のことですが、長崎教区では『子供会巡回』を各月で行っています。この企画は、長崎市内にあるお寺の日曜学校を中心に各寺院を各月で巡回ししながら児童教化を図っていこうという企画です。
子ども御遠忌や報恩講のような派手な企画ではありません。派手なことをやって子供を集めることはできても、全は結局一過性で終わってしまうのは意味がないということで、地道に何年も続けていける児童教化はないものだろうかと考えて編み出されました。
まず続けるためには、無理なく集まれる条件を満たしていれば集まるのではないかということで、打ち上げ花火のような活動ではなく、淡々としていながらも続けていけるような活動は出来ないものかと考えた末に各寺院を順々に巡っていく巡回形式の子供会を立ち上げました。
皆さんもどうかご参加ください。

基本的に子供たちを中心にしていますが、狙いは子供を連れてくるお父さんやお母さんが率先して参加していただくことが一番望ましい形だと思います。それは親が子供に与えるのではなく、そもそも児童を教化するということは、親が子供に教えるのではなく、親が学ぶ場である教化が出来るかどうかにかかっていると感じます。
「教育」というのそもそもの意味は大人が子供に教えるという意味ではなく、親が子供に育てられることが本来の意味だからです。
そういう意味で、ぜひ皆さんのご参加をお待ちしております。

次の巡回は3月緑町にある法生寺です。
5月は式見の浄満寺です。
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