2009.11.28 Saturday
正当のご命日/11月28日
これを御正当(ごしょうとう)と呼び習わしています。
この日には大谷派のいわゆる本山である東本願寺では、結願(けちがん)の報恩講が勤まっています。
※大谷派では東本願寺のことを「本山」という呼び方を改め真宗本廟(しんしゅうほんびょう)と呼んでいます。
真宗十派のうち、東本願寺(大谷派)・佛光寺(仏光寺派)・興正寺(興正派)・錦織寺(木部派)・誠照寺(誠照寺)・専照寺(三門徒派)・證誠寺(山元派)の七派の本山では今日、結願(けちがん/結びの法要)を迎えています。( 出雲路派の豪摂寺は12月)
新暦は1月16日にあたり、本願寺派の西本願寺と高田派の専修寺でそれぞれ賑々しく法要が結ばれます。
真宗本廟(東本願寺)では、27日の大逮夜では坂東節というお勤めで賑々しく勤まり、最終日の結願日中は恩徳讃の大合唱で終わります。
748年前、親鸞聖人は郷里、京都で92歳の命終をむかえられました。
その様子を傍で静かに見取った娘、覚信尼(かくしんに)が、遠く関東で暮らす恵信尼に父親の往生の知らせを綴った手紙が残されています。
娘である恵信尼は、父親である親鸞聖人命終の日の11月28日の様子を「特別に天変地異などが起こるようなこともなく、いつもと変わらない穏やかな日だった」ということを返事に書き送っています。なんともあっけないぐらい静かな手紙でありながら、一人の凡夫として生ききった波乱の人生の静かな終幕。
このことを憶うと、親鸞聖人の「聖人」という言葉がただの綺麗で清浄な言葉としての「聖者」ではなく、もっとゴツゴツしたグロテスクで人間的な暖かみと安心感がみえます。そこに親鸞聖人の人となりと生活感が感じられる手紙です。
ということで、去年も書きましたが、萬行寺もいつもと変わらない静かなご命日を迎えました。
<報恩講の由来>
はじまりは法然上人の遺言『滅後二箇条』に依っています。
法然上人はこの遺言で、私が死んだ後は、世間で行われている追善の仏事を勤めるのではなく、報恩の志のある者はただ一向に念仏を酬報(しゅうほう)する報恩の仏事をしてほしいと述べられています。
その上人滅後、弟子たちは結局、世俗の仏事の習慣に従って仏事を勤めましたが、それは形式的には世俗の仏事と変わらないものでも、内実は日本で初めて勤められる報恩としての仏事であったと伝えられています。
七七日(中陰)の仏事を勤め、六七日には聖覚法印(せいかくほういん)が導師となり、表白文(ひょうびゃくぶん)を読まれています。
その中に我々真宗門徒には親しみ深い「恩徳讃」の原型になったといわれる
「倩(つらつら)教授の恩徳を思えば、実に弥陀悲願に等しきものか。骨を粉にして之を報ずべし、身を摧きても之を謝すべし。依って報恩の斉 会眼前に修して、値遇の願念心中に萠す。」 『法然上人御仏事表白』、『聖教全書五』拾遺部下P92
という文が読まれています。(親鸞聖人はこの知らせを関東で聞いています。)
それがその後、親鸞聖人の滅後、『報恩講私記』が作られたのをきっかけに報恩講として毎年勤まる事になりました。