冷夏

涼しい日が続きます。
夏は熱いと決まっていますし、我々の思いの通りの過ごしやすい夏が来たところで、それはそれでまた考えものです。上手くはいかないものです。

今年は冷夏だそうで、作物の心配をしております。

遇願洞とお待ち受け大会会議 in光明寺


今日はお待ち受け大会の会議と遇願洞です。
若手が中心(といっても30代がほとんどですが・・・)となって始まった遇願洞では、これまで親鸞聖人の聖教を中心に学んできました。その聖教での学習がひとしきりおわったこともあり、今回からはあらたにお待ち受け大会とリンクして、真宗同朋会運動を学ぶこととなりました。

そのはじめとして、帰敬式について学習しました。
お話は光明寺のご住職、武宮学住職。


◯宗門は「親鸞聖人750回ご遠忌」の基本理念として『宗祖としての親鸞聖人に遇う』とあるが、その理念に沿うためには、まず僧分が親鸞聖人に出遇うことが重要。

◯『教行信証』を問信することが宗祖としての親鸞聖人に遇うことになる。

◯真宗という教団は『非僧非俗/ひそうひぞく』の教団であるが、帰敬式や出家者となるための儀式、得度式などををするのか、つまり山を下りた真宗がなぜ頭(こうべ)を剃るのかという問題がある。このことをも一度しっかり考えてみる必要がある。

源空(しょうにん)智行の至徳には
聖道諸宗の師主も
みなもろともに帰せしめて
一心金剛の戒師とす
          『高僧和讃』真宗聖典p498


◯僧分とは究極的な言い方をすれば、如来の代官職であるが、そこが問題となる。
◯帰依することと、権威従属の問題
◯今回の帰敬式では本廟からご連枝に出向していただいて行うが、門主制の問題があることも心にとどめておかなければならない。門主制は天皇的権威とどう違うのかということも大事な問題。

◯門主制と天皇制は基本的に構造が同じなのではないかという問題・疑問を宗門人としてどう考えるか。

◯帰敬式もその権力的構造と同じではないかという問題はどうなのか。


様々な問題提起がありました。


また長崎教区の2組は外海地区とよばれ、対外的にはキリスト教の古い教会郡があり、遠藤周作記念館があることでも有名な地区ですが、その地域には隠れキリシタンが住んでいたといわれ、宣教師が山中に潜伏しながら布教活動を展開したともいわれています。
そのような土地柄、門徒の帰敬式を受式することへの意識は高いとききました。
その原因は、この地域に古くから伝わる子守唄の中にもあらわれていました。
その子守唄の中には、4月になると絵踏み(踏み絵)が行われ、キリシタンがたくさん摘発されたと言われているそうです。
そういうことから、自分たちの命を守るために仏教徒である証をもらって信仰を守ってきたという歴史があるそうです。
そいうことから、地域によって差はありますが、法名と洗礼名の両方をもっている人が多いのもそこからきているそうです。
そう思うと、帰敬式をすすめるという意義はまた違った意味合いをもつものとなっくるようにおもいます。

真宗のことば 26

他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。
聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。
その上の称名は、なにともあれ、仏恩になるものなり。
   
           <蓮如上人御一代記聞書180>

無題

古い民家には当然のことながら、先祖の仏壇があります。私は民家の再生の仕事を始めるとき、最初にその家の仏前にお線香を上げさせていただき、家をつくり守ってきた先祖に敬意を表します。仏壇は家族の悩みや寂しさを受け止め、住む人の心を支え、また、律し、道を正す場でした。人間には精神性すなわち神秘的な部分がありますが、その神秘性をつかさどる場所が必要です。今日の住宅は「明るくて幸せ」であることを全面に打ち出して「幸せ感」だけを売り物にしています。
しかし、ともすれば人生には楽しいことより苦しむことの方が多いものです。悩み、苦しんでいるとき、自分の心をもっていくところがないのが現代の住宅ではないでしょうか。昔の家には、神棚・仏壇をはじめとするどちらかというと暗く落ち着いた場所があり、そんな場所で自分自身の心を振り返ることが出来ました。そんな場所がない現代では、もっていく場所がない心を外の世界にぶつけてしまう。室内の暗さは、民家建築の欠点だと考えられてきましたが、それは一点を観ているのにすぎないのです。


ここでもう一つ面白いエピソードを。

 西本願寺の御影堂の土蔵は高い防火性能を持つ土壁だそうだ。高さは6M。その御影堂の修復にあたり、研究のためにその土蔵に炎を当ててどれだけ耐えられるかテストをしてみたそうです。そうすると炉の中が800度になっても、内部の温度は100度以内におさまっていました。水蒸気が上がり、そのなかに含まれた水分が100度を超えさせないのだそうです。
しかし炉で1時間を超えると、その温度は1000度に上がり、柱は炭のようになっりましたが、土壁は逆に固く焼き締まって崩れないようになっていたそうです。
早稲田大学の材料力学の准教授が、その結果を受けて、これまで土蔵に使用していた土を再利用し、さらに長く寝かせてみると、ひびが出にくいことがわかったそうです。中に含まれているわらの繊維が小さなひび割れを繋ぎとめることがわかりました。
さらに古い土は強度的にも新しいものよりわらの繊維が細かく強度があることもわかりました。
その訳は、土の中のバクテリアが発生し、土蔵の土の経年変化によって良い結果を生んでいた。
これを3年間寝かせ、クリームのような土壁としてよみがえらせたのだそうです。
教授曰く、「これまでずっとこの研究をしてきましたが、これほどのものは現代の先端技術では出来ません。もっと早くわかっていればよかった。やはり昔の人には勝てませんでした。」と感想を語っていたのが印象的でした。



この二つの例は、現代人がおもっている昔より現代の方が進んでいるという進歩的な考えうを覆すものとして考えていいのではないでしょうか。

時津町ペーロン大会


短い春が終わるころ、時津の港から太鼓や鐘の音が聞こえはじめます。
ペーロンの囃子の音です。
ペーロンとは、約14mの船に約30人が乗り込み、太鼓と鐘の調子に合わせて競漕する、いわゆるボートレースです。
調べてみると、1655年(明暦元年)唐船で長崎に来航した中国人の手で始められたとありました。
ペーロンは元来、端午の節句に行なわれるのがしきたりだったといわれています。しかし、今は夏の風物詩のひとつとして各地で広く行なわれるようになりました。また最近では中国と国際試合を行なうまでになっています。



昔は銅鑼や太鼓・笛などの鳴り物を乗せ、のろしを上げ、現在のように速さを競い合うものではなく、ゆっくり船で湾内を漕いでいたという話を聞いたことがあります。
その事から想像すると、奉納や海の神に大漁を感謝しする祭事だったとも考えられています。しかし、確かな事はわかっていません。



ペーロンは長崎だけではなく、本州の一部の地域でも行えわれているもののようです。

作上がり法要

『作上がり法要』が始まりました。

 昔の人は農閑期になると、「農作業も一段落。静かに本を読むような時間も出来たから、そろそろお寺に行こうじゃないか。」といってお寺に仏法を聞きに集まっていました。
それは他に楽しみを知らなかったからだといえます。もっというならば、現代のような楽しみは必要がなかったのだと思います。
現代に生きている我々からすると、昔の人の生活は今と比べると不便で、夏はクーラーもなくて暑く、冬も暖房も寒くて、現代のような快適な生活を知らないのだなと考えてしまいます。
しかし、それは便利な生活を謳歌している現代人から観たみかたでしょう。しかし、昔の人は最初からそのような生活は知らないのですから必要ないのです。
昔より今の方が進んでいるとは言えないのです。

 たとえば、古い家にいくと、玄関が土間になっているところを見かけることがありますが、現代の住宅では土間ではなく、コンクリートで固められた水はけのよい衛生的な玄関です。
これを現代の視点から見ると、土間というのは不衛生でもあるし湿気も多く扱いにくいものとうつります。
そう思うと、土間はコンクリートがなかった時代のその代用品としてあったんだなと想像します。
しかし、それは現代hじゃ生活に土間を必要としない生活スタイルに必然的になっていったからであって、その時代には必要性として土である事が大切だったのです。現に畳の生活は無くならないだろうといわれていることからも、容易に想像できます。
土間はコンクリートの代用品ではなく、土間である必要性があったのです。

 現代の住宅は、外と内をさえぎり、外とは全く違う空間を作ることによって、生活を快適に保つということが中心となっています。
それに対してかつての住宅は土間に代表されるように、周りの環境、自然。そこにあったものをいかにして生かし、そして自然と共存するかが大切にされてきました。
現代、テレビなどでよく放送される諸の社会問題や冷淡な犯罪の多くの原因は、そういった人間の力による自然との共存が無くなったことに由来していると言われています。それに関係して感受性の欠落から社会との関係性の欠落、または働くことばかりで、ゆっくり自分のことを考える余裕や場所がないことから来ていると指摘されています。
そうして自己を守るために個人主義のという考えが発達してきました。こういった背景が住宅事情にも反映しているようにおもいます。


 そんなかつての土や川や空と格闘し、それによって恵みをいただく。そのようないわゆるスローライフを営む暮らしは無くなったようです。
ゆっくり静かに物事を考える・・・・そのような時間はとても大切だなと最近ことに思います。

 今はたとえ生活が貧しくとも、心が豊かでのびのびした生活はまれになってきているようです。
 ただ慌ただしく一日中仕事に終われ、家へ帰ると疲れはてて寝てしまう。そのような殺伐とした毎日の中にあっても、人の心は常に本当の意味で解放されるような有り方を求めているのではないでしょうか。


「作上がり」ということばから感じるのは、昔の人たちの生活の豊かさです。

『歎異抄聴記』 25

仏法は釈迦にはじまったものではない。
南無阿弥陀仏は昔よりある。
そんなものは歴史に証拠があるかというが、そんな歴史の証明はいらない。
南無阿弥陀仏みずからが自証している。
南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏以外のものの証明はいらない。
南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏みずからが証明している。
南無阿弥陀仏あって法蔵菩薩があらわれた。
法蔵菩薩があらわれて十劫の昔に南無阿弥陀仏ができたというが、南無阿弥陀仏がなければ、法蔵菩薩も世自在王如来もでてくるわけはない。
ゆえに南無阿弥陀仏は本来である。
因位のときを名といい、果位を号という。南無阿弥陀仏を因として南無阿弥陀仏の証りを開かれた。
だから南無阿弥陀仏である。
法蔵菩薩の生まれるまえから南無阿弥陀仏がある。
それをうけて法蔵菩薩がでてくる。
南無阿弥陀仏は無始久遠の法で、そのなかから法蔵もあらわれ、世自在王如来もあらわれる。
それあればこそ法蔵は、五劫兆載永劫にむなしからず修行された。
                
                                曽我量深『歎異抄聴記』





蝉が本格的に鳴きはじめました。気の早いのは7月に入ってから鳴き始めていましたが、ほとんど仲間がいないまま死んでしまいました。まだまだ本格的とはいっても序の口です。

これからいよいよ猛暑がやってくる。そんな感じがします。

寺報『徳風』 第3号 投稿文より

父が残してくれたもの
           田崎淑子(横尾)

 それは、「正信偈のお話」という父が筆で書いた一冊の本のことです。暮れも近くなり少しずつ部屋を片付けていたら、父の懐かしい文箱の中から「正信偈のお話」という半紙に書いて綴じた一冊を手にしたときは私にとって宝のようでした。とてもありがたく感じました。
 毎月28日は親鸞聖人のご命日の法座に参詣し、法話で正信偈を少しずつ区切ってお話してくださりとても解りやすく、「往還廻向由他力」往くも還るも他力だと廻向されていることも分かり、真宗門徒に生まれてよかったと感謝し本当にありがたいと思っております。
 父は、元気だった頃は御正忌報恩講が近まるとお寺へ立華を活けにでかけていました。家では父の後ろに座して正信偈を上げていましたので経本を見ずに上げることはできてもその意味までは理解していませんでした。法要と私の休日が重なると、一緒に参詣に行こうという父の誘いに私は何とか言い訳して行かず今思えばそのとき一緒に行っていれば、どんなに父は嬉しかっ
ただろうと思います。
 高齢になった父の淋しそうな姿を見て、それから私は一人で参詣する様になりました。そんな私を父は家で首を長くして待ち、私が聞法した話を何より楽しみにしていました。今では私が娘に一緒に参詣しようと誘いますが昔父の誘いを断っていた私と同じ言葉が返ってきます。私も父に同じような思いをさせてしまいすまなかったと口惜しみます。何時の日か娘も分かる日が
来ると願っています。
 何よりありがたいことは、私の住む街は昔は小さな部落でしたが殆どが真宗門徒で、御文様開きや報恩講や同朋会などが大切に行われて、それが現在も続いていることです。それが私にとって何よりありがたいことと思う一人でございます。娘や後世にも続けられることを心より願っております。

祝!!

見るホームページのアクセス数がちょうど12000を超えました祝拍手
HP開設が2006年10月。
それからようやく3年になりますが、これからも続けて連載していきますのでよろしくお願いします。
それから「今月のなあに」はずいぶん滞っていますが、必ず更新しますので楽しみに待っていてください。