原爆の残したもの

原爆投下で出る、いわゆる「死の灰」。
その「死の灰」が原爆投下から60年以上たった今でも細胞の中で放射線を
出し続けている様子を、長崎大学の研究グループが世界で初めて確認したそうだ。
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いまなお、原爆症で苦しんでいる人が周りにも居る。その事に対して無関心でいられない。
長崎や広島で癌の発生率が多のは放射能の影響だって以前からずっといわれてきた。
しかもそれがDNAのなかにまで入り込むとなれば、その世代だけの問題ではない。
これはもう「自分たちがいなくなったら関係ない」なんていえない。

しかもその成分がプルトニウムだってところまで解っているってもすごい。

濁った世界に咲く華(正覚の花より化生す)

     如来淨華衆 正覚花化生
       如来淨華の衆は正覚の花より化生す
               天親 浄土論 真宗聖典p036



境内の蓮の花がいよいよ咲き始めました。
この時期になると、この花を見にわざわざやってくる人を見かけるようになります。
今年は花のつきが良く、たくさん咲きそうです。年々華の数が多くなっているようです。

浄土三部経を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)という人がこう謂われています。

  たとえば、臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし
  ただ、蓮華を執りて臭泥を取ること勿れ


鳩摩羅什は泥のないところには蓮は咲かないのだと言われています。
蓮華とは仏の覚り、仏の真実の言葉です。
一方、朱に交われば赤くなってしまうのが我々ですが、仏の真実の言葉はどんな世界であっても決して染まることがありません。
しかし、蓮華は汚れて底の見えない濁った泥の中にしか咲かないのです。
泥が無くなれば蓮華の花はとたんに枯れてしまいます。
それは、煩悩のあるところににしか覚りはないということです。
もっといえば、汚れた世間だからこそ、真実の言葉はさらに輝くのです。
鳩摩羅什は聖職者でありながら、妻や子どももいて、世間のただ中でいきている。
自分は泥まみれの凡夫であるが、私の訳した経は真実だと言われる。
鳩摩羅什が経を真実だと感じられたのは、自分が泥のような者だったと自らの姿を教えられたからなのです。


 阿弥陀という如来は、衆生の苦しみや悲しみや愁の多い私たちの世界の真っ直中に自ら全身を投げ出す如来であると表現されています。
その姿はとても優しく、居ても立ってもいられないほど、悲しみにくれている人の心に寄り添って救わないではいられないほどの大慈悲心をもった如来です。
しかも浄土という自らがつくった至上の国がありながらも、その世界を捨ててまで、娑婆の世界の真っ直中に身を投じるのです。
そして世界のどこかで、孤独に苛まれ悲しみにくれている人の心に寄り添って、その様な人が一人残らず救われなければ、自らの修行は永遠に成就しないと私たちに誓っている如来姿であることから、真宗の本尊である阿弥陀如来像は蓮の上に立ち上がった姿として表されているのです。

そういったことから天親菩薩の浄土論には如来淨華衆 正覚花化生と書かれているのです。

アメリカからの来客

真宗大谷派の寺院は世界各国にあります。
今回来寺したアメリカの青年も北米開教区からやってきました。
サンフランシスコやバークレー、LA。遠くはシカゴからも来ていました。
みんな中学生から高校生ぐらいの人たちで、日系3世から4世の若者です。
顔は日本人のようですが、ほとんど日本語は話せず。
でも正信偈や念仏は日本人よりちゃんとしていました。それに正座もちゃんとできる。見習うべきところがありました。

初日の晩は、雅楽を聴いてもらいました。


竜笛は外国で言う「フルート」にあたります。さしあたって「ジャパニーズ・フルート」といったところでしょうか。篳篥(ひちりき)はジャパニーズ・オーボエでしょうか、それにしては小さいかな?音は低い音なんかは似てるかも・・・・。






やはり雅楽の楽器の中でも特にこの竹でできた笙(しょう)は変わっているので、目を引きます。吹いても吸っても音が出る仕組みに始終感心していました。
聴いたことのない不思議な味わいのある音が出ます。英語では「a reed pipe wind instrument 」だそうです。

異国の文化人は若いこともあってでしょうか、何にでも関心を示します。
かれらは特に日本に関心があるようです。写真の彼は中でも最年長。日本のアニメなどに関心があるそうです。少しだけ日本語ができます。


それぞれに自己紹介をしました。通訳が入るので時間がかかりましたが・・・・。


次の日は長崎観光。
出島や中華街、それに寺町。長崎はヨーロッパと中国と日本の小京都が渾然一体とした変わった町です。
チャンポンや皿うどんを食べたいというので、中華街へ。近くにあるおおきな花火屋さんで花火を大量に買っていました。
夕方は回転すし。これもまた大喜びでした。
ただ、海外にはみんなで裸になってお風呂に入る習慣がないので、銭湯が苦手のようでした。
これも、カルチャーショックだったようです。



夜は花火。
アメリカでは独立記念日以外では花火は禁止されているんだとか。
長崎では夏になるとこれがどこでも「パンパンパンパン、バリバリバリバリ」聞こえてきます。
そうです長崎は日本一の花火消費量を誇っているそうです。(たいした自慢にはなりません)
これもまた大喜び。とても素直な青年たちでした。

たとえば線香花火を見て、諸行無常の哲学を考える。この感覚がアメリカの人にはわからないだろうな・・・・。
現代の日本人にもそんな人が多いんでしょうね。



アメリカの人はアメリカンドリームという言葉に象徴されるように、「頑張って努力すれば幸せになれる」と考えている人が多いそうです。実際アメリカで開教をしていて感じることだそうです。
それでも、昨今の経済事情。アメリカが不振を続け、経済が斜陽になってきたころから少しずつお寺にやってくる人が増えて来ているそうです。
まさに何時のどの世でも、「諸行無常」が当てはまらない世界はないのですから、いつまでも繁栄が続くと思うのは迷信でしょう。どんなに努力しても、その介なく終わっていく時があるのです。
その「自力が破れた」という時に、自然(じねん)に仏法が染み入ってくるのでしょう。
しかし、アメリカ社会では負けることはそれは許されないことなのだそうです。
そういった悪い面も、良い面でも人間は万国共通なのだと思いました。

海外では日本的な感覚では布教はできないとききました。なるほどそうだと思います。
仏教は時機の教えですから、その人や時代の機に応じて、本質は変わりませんが、表の姿は変わるものです。
海外での布教も、かつてキリスト教がこの国にやって来た時には、ずいぶんと宣教師が苦労し、仏教の考えを宿借りしながら布教したのだと聞いたことがありましたが、それは「なるほど」とおもいます。日本もそういった意味では、私を含め、まだまだ仏教を正確に理解する過程にあります。特に海外では、真宗は全くのアウェー。
キリスト教の国においては国民性から母語そのものが仏教とは世界観が違う中での布教ですから、なおさら大変で苦労が絶えないものだと想像します。しかし、人間の本質を問うならば、生死や無常、真実は不変なもので何時の何処の誰でもがそう畝づけるものです。これはは万国共通の人間の本質です。それを問うなら、人間の垣根などは簡単に越えられるものでしょう。
これから長い間かけて仏法は浸透していくものでしょう。しかし、これが世界の紛争や差別の温床にならないことを念じるばかりです。


朝早く出発。
その後は、京都の同朋会館に泊まりだそうです。
御影堂の大きさになんて言うかな?
大変でしたが、楽しい二日間でした。

過去の掲示板より

■ 2006年 5月 ■




すべての者は暴力におびえ
すべての者は死を恐れる。

己が身をひきくらべて
殺してはならぬ
殺さしめてはならぬ


  暴力によって、人間が人間であることを失ってしまった20世紀、その戦争と革命の時代が終わって、やっと安定した静かな時代を迎えたいと期待していた21世紀において、ますます危機は深まってきています。
近代15年戦争、それは世界中にとてつもない殺戮と破壊、それに経済格差を起こし、敵意と恨みは人類全体に深い禍根を残しました。
『日本国憲法』はその痛みへの懺悔から生まれた珠玉の法です。「世界遺産」となっても、不思議ではありません。日本人はもちろん、地上の命あるもの全ての宝物というべきでしょう。
この法のもと、戦後60年もの間、一度も他国の国民に銃口を向けないですんだ日本人の国が、なんと「平和のための戦争」ができる国になろうとしています。
「憲法改正」をめざす政府の考えは、平和をつくるために日本が戦闘行為をすることは正しい、こう正当化しようとしています。
かつての戦争で、殺された人々、殺させられた人々、身心に深い傷を負った人々にどう説明がつくでしょうか。
憲法9条の改変の動きは現代日本の「闇」です。このことに国民こぞって気づくべきです。今日の世界情勢は「やられたらやりかえす」・・・・・・「やられるまえにやってしまう」こういう悲しい時代です。
これではいつまでたっても戦死者もわれわれも、未来の子供達も安らぐことはできません。

遇願洞公開講座

この時期には公開講座が目白押しです。
それもそのはず、この時期は決算なのです。一年の〆の月にあたり、最後に講座をもってしめる事からこうなっています。
今日は遇願洞公開講座。この2年間親鸞聖人が関東の弟子たちへ宛てた手紙、『御消息集』を学んできましたが、今回でちょうど読み終えたので、次からはお待ち受け大会にむけてということもあり、同朋会運動を学ぼうという事になっています。
今回の講師は長崎教区の第2組、崎戸法恩寺のご住職益田惠真師にお話いただきました。御消息集にみえる関東の弟子たちの造悪無碍の問題をとりあげてお話しくださいました。

真宗のことば 17



摂取というは、にぐる者をとらえておきたまうようなることと、ここにて思い付きけり。
 
                      蓮如上人


阿弥陀如来(あみだにょらい)は、ガンジス川の砂の数ほどいるといわれる仏の世界の中にあって、阿弥陀一仏だけが救う者の条件や状況を全く選ばず嫌わず一人残らず必ず救うという※誓願(せいがん)を持っているといわれています。

 他の仏は救わないというわけではないのですが、阿弥陀如来の場合、名前を呼ぶもは無条件で阿弥陀の浄土に往生させるのです。
 その阿弥陀如来の浄土における修行は、娑婆世界の一切衆生のために全てを投げうって修行するというきわめて困難で泥臭い、いわば浄土世界ではまれな仏さまらしくない仏さまなのです。

ここで蓮如上人がいわれる『摂取というは、にぐる者をとらえておきたまう』というのは、一言で言うならば、阿弥陀の慈悲による修行は、我々※凡夫(ぼんぶ)にとってみれば『不都合な真実』であったり、『余計なお世話』という類いの印象を受けます。
 たとえば人は本当のことを友人に言われるとすると、途端に腹を立てるという事があります。そうして本当の事をタブーとして世間が成り立ってしまうと、ホンネとタテマエの世界でしか生きられなくなります。そうすると本当の事をいわれるのが煙たくてしょうがない。だから逃げるのです。

 しかし、阿弥陀如来の浄土における摂取不捨の修行は、そうするしか生きようのない、人生における根本問題から逃げようとする我々を「逃げるな飛び込め」と仏自らその問題に引き戻し、ある意味厳しいけれども、仏の励まてくださるのです。
蓮如上人は御一代記聞書のなかで「ききたくもない事なりとも、まことに信をとるべきならば、きこしめすべき」(真宗聖典p876)ともいわれています。

九州教学研究所長崎分室公開講座


二日間の公開講座です。
講師は幡谷明師。
回向についての講義でした。

序講は回向の歴史的背景から始まって、法然上人の回向から親鸞聖人の回向の了解をお話しくださいました。
内容は多岐にわたり大部で、話が次々に展開していくのでついていけないところもありました。
回向ということは、浄土真宗という仏道のなかで、最も根幹をなす事ではないかと思います。

幡谷先生は、法然上人は浄土真宗を親鸞聖人に託され、上人の示された如来回向へ展開された。
その回向の系譜が教行信証の後序にもあらわれているし、天親・曇鸞の祖師から二字をもらった親鸞という名前がそれを物語っているとも話されました。

あいにく二日目はお葬式が出来たために途中で退座し、最後まで聞くことは出来ませんでした。


講義には、門徒さんも来られていました。

真宗本廟団体参拝会議と教行信証の勉強会

きょうは団体参拝の会議です。
真宗大谷派は2年後の2011年に「宗祖750回御遠忌」を迎えます。それに先立って真宗本廟(東本願寺)に団体参拝することになっています。
長崎教区からは2000人を見込んでいます。その内、第1組では1000人を真宗本廟にお連れします。
そのための人数調整を今日は行いました。なんといっても再来年のことなので、まだ実感がわかないのが実際ですが、それでも備えあれば憂いなしということで早めに準備に取りかかっています。



その後は、毎月の勉強会、「教行信証拝読の会」です。

雅楽の稽古

今月の24・25日にアメリカのバークレー別院から門徒さんが12人ほど萬行寺にやってきます。
門徒と言っても、みんな中学生や高校生で、ほとんどが日系の何世かになる人たちのようです。
どれほど日本語が出来るのかもわかりませんが、交流のために雅楽を演奏してもらおうということで、教区の雅楽隊、自然相和会(/じねんそうわかい)に演奏をお願いしました。
今日はそのための稽古です。








仏事Q&A 〜仏壇〜

 今回のテーマは、仏壇です。前回に続き、東本願寺発行の「お内仏のお給仕と心得」(25〜28頁)より抜粋、転載しました。
Q1 仏壇についてお聞きしたいのですが。

A1 仏壇の意義とは、私たちがいつでもどこでもどんな場所でも仏法に帰依し、仏のみ名を称えるというところにあります。
したがって合掌礼拝するのはどこでも、どんな時でもよいわけですが、合掌礼拝という身の形をとるには、やはり形あるものを拝することによって、もっともこの身に自然に礼拝できるというのが、私たちのおのずからなるわざであります。 家庭に仏壇を安置し、ご本尊をお掛け申して朝夕礼拝、勤行するという真宗のご門徒の厳かな奥ゆかしい慣習は大切にしたいものです。



Q2 仏壇を置く場所はどこがいいのですか。方角や向き方にも何か定めがありますか。
A2 仏壇を置く場所は、礼拝の心にかなった、清浄で家庭の精神生活の中心としてふさわしい場所をえらんで下さい。
その場所や向き方について方角を気にされる方があるかもしれませんが、そういうことは無用です。ご本尊・阿弥陀如来の安置されたところがすでに西方浄土すなわち、西の方角となると考えてよいでしょう。家の建物の構造にかなった礼拝するのにふさわしい場所でさえあればよいので、世間でいわれている迷信的なことで置き場所に迷うことはありません。


Q3 仏壇ご崇敬のはじまりと申しますか、その基本となるものは何ですか。
A3 仏壇崇敬の元来の形式は、日本家屋の「床の間」です。正面中央にご本尊を掛け奉り、その前に卓、あるいは押板をおいて、その中央に三つ具足※をかざして礼拝する。

<三つ具足>


このように日本間の床の間というのは、仏教の崇敬形式に起源するものなのす。現代では床の間に卓や香炉、生け花が飾られますが、これらは元々その場所が仏壇であったという名残りですね。

<床の間形式のお内仏 1>


<床の間に作り付けた形式のお内仏>


家屋の形式の変化や時代の移り変わりとともに、床の間の他に仏壇を別に設け崇拝するようになってきたのです。
仏壇のことがよくわかりました。
迷信を気にすることなく、お給仕を大切に心がけたいものです。