お内仏拝見/徳風第8号より 

平常時の荘厳 脈々と受け継がれてきた門徒の営み


日並郷の山下 武さんのお宅へ伺って、お内仏を拝見しました。
「この仏壇は、私は80歳になりますが私が物心ついた頃から今のまゝの姿であり、父の代に3回、私の代に1回、合わせて4回仏具屋さんに金箔などの手入れをしてもらいました。
恐らく100年以上前のものだと思われます。」と話されました。お話しの通り100年以上経っているというのに、つい新品とみまがうほど光かがやいて見えました。


ご本尊の両脇の脇掛には彰如上人のお名前があります。
山下さんのお父さんの時から明治、大正、昭和、平成と時代が移り変わり、一人ひとりの生活スタイルが変化しても、大事に守り継いでこられたこの「お内仏」でのおつとめが100年以上にわたり親から子、孫へと脈々と受け継がれていることに、山下さんのお気持ちがよく現れているようにお見受けしました。


写真は山下武さん/奥さんの多栄子さん/お嫁さんの満美さん/お孫さんの夏未ちゃん/咲稀ちゃん

鶴亀燭台

見る大谷派の仏具の中で一番目につくものの中でおおよそ一番ユニークなのがこの鶴亀燭台ではないかとおもいます。
なぜ鶴と亀なのかという質問をされることがありますが、よくわかりません。
おおよそ深い意味はないのではないかと思われます。
もしわかる人がいたら投稿ください。メール待っています。

仏具は皆、作法のとおりに置くと全体のバランスがとれるようにデザインされています。
作りそのものが必ず正面を向くようになっているのです。
よぉく観察してみましょう。

見る 鶴亀燭台は家庭によって一対あることがあります。両方ともよく見てみるとデザインが違っています。
右用と左用がありますよ。

鶴亀 鶴の蔓

蓮軸は蓮の実が正面を向くようにします。




見る この亀はよく見ると耳がついています。

鶴亀の亀

向かって右に置く亀は尻尾が参詣席の方を向いています。




見る 向かって右に置く鶴は口をあけています。





如来の印相

萬行寺の阿弥陀の手1

如来のポーズは印相とよばれ、様々な指のポージングをしていますが、浄土教の阿弥陀如来は来迎印(らいごういん)と呼ばれているポーズをしています。
平安時代は無施畏(むせいいん)・与願印(よがんいん)といわれるものが鎌倉時代にかけて作られたのだそうです。
この二つの印は、両手の指を全てそろえて伸ばし、手のひらを前に向ける。
そして右手は上げ、左手は下げ、共に手のひらを前に向けていました。
それが後になると上の写真のように、それぞれの手の親指と人差し指で輪をつくる来迎印と無施畏・与願印両方を兼ね備えたポーズに変わったといわれているようです。(・・・それも諸説あるそうですが。)

無施畏(むせいいん)は「畏れるな」という説法しているすがたです。われわれは自分でつくった思いに苦しめられ、それが故に本当は畏れなくてもいいものを畏れています。そのような衆生に阿弥陀は「畏れるな」と説法をされます。

与願印(よがんいん)は、人々の心の奥底にある真の願いを聞き入れ、その望みを叶えて衆生を救おうとする如来の行を表わしています。しかし、我々には欲がありますので自己チューなお願いしかしません。如来は「汝が本当に欲しいものはそんなものなのか」と問うているのです。



来迎印は、念仏者の臨終に際して、阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来ると阿弥陀如来が衆生に誓っているしるしであるといわれています。
これは「仏説観無量寿経/ぶっせつ・かんむりょうじゅきょう」に説かれる九品往生(くほんおうじょう)といわれる思想に基づくものです。
その極楽往生のしかたには、信仰の篤(あつ)い者から極悪人まで9通りの段階があると書かれています。
上から
「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)
「上品中生」(じょうぼんちゅうしょう)
「上品下生」(じょうぼんげしょう)
「中品上生」(ちゅうぼんじょうしょう)
「中品中生」(ちゅうぼんちゅうしょう)
「中品下生」(ちゅうぼんちゅうしょう)
「下品上生」(げぼんじょうしょう)
「下品中生」(げぼんちゅうしょう)
「下品下生」(げぼんげしょう)

となっています。
その一番下のある「下品下生」(げぼんげしょう)の教えには、どのような悪人でも阿弥陀如来は必ず見捨てないと誓っている。これが一番大事な部分である。そう善導大師は説かれています。
そう言った意味のある深い印相なのです。

親鸞聖人御命日定例

後堂

毎月28日は日本全国の大谷派のお寺で、親鸞聖人の命日の定例法要が行われています。
定例を行っていなお寺はありません!(言い切る。ショック

今月の正信偈の法話は7高僧の第一番目、「龍樹」の章です。
ようやく龍樹に取りかかりました。

真宗のことば 14

自分がわからないから信ずる信心がぐらつく。

                  〜曽我量深〜

如来の手

真宗の本尊である阿弥陀如来の手には、両手の指に水かきがついています。これはあらゆるものを残らず救いたいという願いを表しています。

如来の手アップ
お寺やお内仏におまいりして手を合わせる時には、ご本尊の姿をよくみましょう。
目を瞑って下を向いていたのでは、ご本尊の姿は見えません。
それではお参りしたことにはなりません。


ここにいる阿弥陀如来の姿には一つ一つわたしたち衆生への説法として、このような形をしているのです。

そして、その説法されている阿弥陀如来に「なんまんだぶ」と如来の名前を呼ぶのです。
この行為を正式には『称名念仏/しょうみょうねんぶつ』といい、略して”念仏”とよびます。この言葉は皆さんも聞いたことがあるでしょう。まさに書いて字のごとく、「名前を呼ぶ」「仏を念じる」という意味のことです。この二つは同じことです。ですから念仏でも称名でも意味は同じことです。つまり念仏するということは称名であり、称名ということは念仏であるのです。
ですから、まずは声に出してすることが大事です。これが作法でもあり、とても大事な教えでもあります。
そしてなによりそれは誰でも何処でも何をしていても、どのような信仰を持っていようと誰にでもできる行(ぎょう)です。
ですから、阿弥陀如来は人々を選ばず見捨てず何時でも私たちを救うと私たちに誓っているのです。

しかし、私たちは仏さまに「商売繁盛・家内安全・恋愛成就・学業成就」などのお願いをします。
しかし、仏さまはそのような願いを『大慈悲/だいじひ』という形で持って応えていかれます。
たとえば、親は子どもの欲しいものを欲しいままにあげるのが本当の親心でしょうか。むしろその時には、親としての厳しさが本当の優しさである時もあります。
それと同じように「願いさえすれば何でもかなう」という私たちの自分中心的な考えを仏は私たちに問うているのです。
しかも、その願いはいつでも自分の思いを通そうとするから、それが原因で逆に人を苦しめて、それが自業自得となって自分も苦しむ。
そのような大事なことに気付かないのがわれわれです。
阿弥陀の大慈悲心は、そういった自分中心の有り方に目覚めさせる力を持っていると、昔からそういう表現で表されたものが「仏さま」といって頭を下げ、手を合わせて来た仏像や絵像や名号なのです。ですから”ご本尊”と呼び習わすのです。

何に向かって手を合わせているのか、何に向かって頭を下げるのか、それが大事です。
よく亡くなった人に手を合わせるという人がいますが、その人に向かって「なんまんだぶ」と阿弥陀如来の名前を呼んでいるのは、考えるとおかしなことだと思いませんか?
「なむ、あみだぶつ」これは、阿弥陀仏の教えを聞きます。阿弥陀仏に頭を下げる時の言葉です。そう言われれば、ご先祖さまや亡くなった方に向かってそう言うのは、なにか違っているような気がしますね。


私たちが日頃「仏さま」と呼んでいるものは、内容をいえばこういう姿形をしているわけではありません。
仏さまとは、我々を救う用(はたら)きを昔の人は”仏さま”と名付けたのです。ですから、色も形も匂いも触ることも出来ないし、口で言い表すことも出来ない。ですから、実在の人物であるお釈迦様の姿形に似せて描かれたり形作られたりしたのです。あるいは文字になったり言葉になったりするのです。ですから阿弥陀如来のことを「自在人/じざいにん」とも呼び、自由自在という言葉はここから出て来ています。

25日 蓮如上人御命日定例


毎月25日の定例法座では、和讃についてお話しをしています。

今回の法話は若院。

大経和讃です。

まず大経(仏説無量寿経)和讃を読み始める前に、仏説無量寿経の前半の概要を簡単に説明しました。
まず、「如是我門/私はこのように聞かせていただいた」という書き出しから始まります。これは弟子のアナンの言葉です。かれはお釈迦様の言葉を一番多く聞いていたので多門第一と呼ばれていました。彼がいなければ私たちはこうして仏法を聞くことが出来なかったのです。
それから、次に出てくるのが釈尊が実際にたくさんの弟子たちに道場で法を説いているところから始まります。それからたくさんの菩薩たちが出てきます。これは釈迦の生きた教えに出会った者たちを表し、ここに出てくる菩薩たちとは、その後に仏の教えに出会い道を求めて生きた門法者を表しています。ですから大きな括りでいえば、この中に我々も入っているわけですね。
ですから、お経というのは昔話ではなく、時代や場所や人種を超えて、人間の根本的な心に語りかけているのです。

 釈尊はおおよそ2600年前に亡くなりましたが、その言葉はお経となって我々に今も語り続けていると考えるんです。
それを「今現在説法/こんげんざいせっぽう」として、私たちは今、現にこうしていただいているのです。
そういう意味では、無量寿といえます。

それからある菩薩が兜率天(とそつてん)というところから、自ら選んでゴータマシッダルタと名のる王子に生まれられます。そして7歩いたといわれています。これは6道という仏教でよくいわれる迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という世界を超えるという意味で、生まれたその時から仏とは、我々にとってどういう存在であるのかを示す使命を持って、菩薩はこの世に生まれたとあります。これは一つの喩え(メタファー)です。
それから、「生病老死をみて世の非常をさとる」とありますから、「人は生まれたら死なねばならない」という人として生きることの悲しみを背負って出家されたということを示しています。
そうして地位や名誉や財産、それから子どもや妻、全て捨てられるものは全て捨てて裸になって森の中で6年間の苦行をするということが書かれていあます。


そこから、ここが面白いところです。大経は話が一転して、急に時間を遡ります。
その菩薩が生まれる遥か以前の世界に行くのです。
そういって修行した菩薩が51回あらわれて如来となった話をお釈迦様はされます。そうしてやっと法蔵と名のる菩薩にようやくなったのだというのです。
このお話をお釈迦様の人生の歩みになぞらえて、法蔵菩薩の物語は展開していきます。

真宗のことば 13

相手を鬼とみるひとは
自分もまた鬼である。

       〜曽我量深〜

徳風  第7号『はちす』



   『いろはにほへと』

 若い修行の比丘が一人、ひたむきに幽谷の雪山を越えて求法の旅をしている。その真摯さに感動した帝釈天は、羅刹になって比丘の前にあらわれた。
 そして「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり」と雪山偈の半分をとなえた。
 比丘はその真理の句を聞いて驚き、歓喜して
「誰ですか今、真理の偈をとなえたのは」と問うた。
 すると羅刹が「私だ」と答えた。
 比丘は「あとの半偈を聞きたい」と請います。
 羅刹が「うたってやりたいが、私は腹がへっている。人間の生き血を吸えたらうたってもよい」とこたえます。
 比丘は「真理の半偈を聞くためなら命の全てを捧げよう」と答えた。
 やがて羅刹は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」とうたった。
 それを聞いた比丘は歓喜し、後の世のために四句を岩に彫り、空に書きつけた。
 そして約束通り深い谷底に身を投じた。
 即座に羅刹は帝釈天の姿になって、大きな手で修行者を受けとめ、恭敬礼拝した。
 これは『涅槃経』にある釈迦前世の物語です。

【語彙】
比丘 (出家して道を求める菩薩僧)
帝釈天(仏法の守護神)
羅刹(帝釈天が変化して鬼になった)
諸行無常偈(雪山偈 いろは歌)
諸行無常〈色は匂へど 散りぬるを〉すべて因縁によって生滅する存在ははかなく短い。
是生滅法〈我が世誰ぞ 常ならむ〉 是が、生滅する現実世界の法(道理)である。
生滅滅已〈有為の奥山 今日越えて〉生滅への執着の深さを知って、仏の真理を聞けば、
寂滅為楽〈浅き夢見じ 酔ひもせず〉煩悩動乱の迷いを離れて寂滅を得る時が真の安楽

 上の写真はチベット高原を流れるヤルツァンポ河、この河の源流は、標高5300mのヒマラヤ西北、カイラス山近くの湖にあって、まるで巨大な龍のように、ヒマラヤ山脈の北麓を悠々と1500キロも東へ流れます。そしてヒマラヤ山脈の東端ナムチャバルワの大屈曲点で180度向きを変えて大渓谷地帯を形成しながら、中国印度の国境マクマホンラインを越えて、ヒマラヤ山脈を迂回してインドに入る。それからディホン河と名前を変えて、さらアッサム平原をプラマプトラ河と名を変えて流下し、バングラディシュの ダッカ付近でガンジス河に合流し、ベンガル湾に注ぐ延長2960kmのアジアの大河です。

お待ち受け準備委員会

永代経法要終了後、1時から正林寺にてお待ち受け大会準備委員会、総務部の会議です。
今日はお待ち受け大会で行う講演会の講師選定を行いました。
おおよそ決まりましたが、まだこれから詰めていかねばなりません。
報告は後ほど確定事項としてのせていきたいとおもいます。