真宗のことば 9

われわれは知らなくても仏に願いをかけられ望みをかけられている。
   
          〜曽我量深〜

真宗 お寺の掲示板

西教寺  長崎県大村市荒瀬町1124番地

               住職:田中 顕昭



「それぞれの感じ方がおもしろい」

 「掲示板の言葉は自己表現の場だと思っていて、こころに引っかかった言葉を載せるようにしているかな。やはり和讃などの聖教の言葉はいいね。自分で思いついた言葉はあまり残らないね」と語るのは、長崎教区第三組西教寺住職の田中顕昭さん。
 お寺のすぐ側には、かつて「キリシタン大名」と呼ばれた大村藩の領主、大村純忠終焉の地があります。大村藩の真宗寺院の多くは切支丹(キリシタン)禁教令と宗旨改のために建てられたものがほとんどです。ここ西教寺もその一寺です。



 明治期に建てられた本堂が老朽化したため、2007年に新しい本堂が建立されるとともに住職に就任されました。まだ一年半の新人住職です。
 「大村という場所は住みやすく良いところ。しかし、そのぶん、のんびりした気質がある。でも良い風に言えば、おおらかというのかな」と語られていました。


『チャンスはピンチの顔をしてやってくる。 ビル・ポーター』



掲示板の言葉は、生まれながら脳性まひの障害をもって生まれたビル・ポーターという人が、障害を抱えながらもアメリカでトップセールスマンになるという話をテレビで見ていたときに、彼がいった言葉だそうです。「障害を抱えている人が語るからいいと思うのかもしれないけれど、人間は窮地にたたされた時、それをどう乗り越えたらいいかってそれぞれ考えるでしょ。だから、そこに答えを持ち込むのではなく、言葉が投げ出せたらいいんじゃないかと思って書いた」とのことです。
 掲示板自体の反応はどうか、住職にお聞きしたところ、以前、親子二人で来て、掲示板の前で熱心に言葉を書き留めていたことがあったそうです。そこで、その二人に何を熱心に書いているのかと尋ねると、「とてもいい言葉なので、書き留めて学校の先生に見せてあげようと思っています」と言われたそうです。
今までに掲示板で好評だったのは、「「忙しい」と言っているときは、なまけている証拠だ」という、安田理深先生の言葉だそうです。住職は、何度もどういう意味か尋ねられ、またある時には、この言葉が気になってわざわざ庫裏まできて尋ねた人もいたそうです。

 掲示板の言葉は、理解しようとすると言葉に突き放される。そんな言葉がかえっていいのかもしれない。今回の取材をとおして思いました。
(長崎教区通信員 亀井 攝)

御命日

毎月28日は全国の真宗寺院では、いや、海外でも親鸞聖人のご命日が勤まっています。(本願寺派は16日)寺院によって形式や形態が違っていることもありますが、何かしらの行事が行われています。
萬行寺では毎月28日は、正信偈についての住職の法話があります。
ようやく前半がおわり、今回から後半の七高僧のくだりに入ります。

 印度西天之論家 中夏日域之高僧、
  顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見


 大聖興世の正意を顕し、
 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
 釈迦如来、楞伽山にして、
 衆のために告命したまわく、
 南天竺に、龍樹大士世に出でて、
 ことごとく、よく有無の見を摧破せん。


今日は、婦人会で今年80歳に成られた長寿者のお祝いをしました。

どうぞ、どなたもお参りください。

つれづれ日誌



今日は昨日ほどは寒くはありませんでしたが、風が強い一日でした。
いよいよ、4月ものこすところ僅か、来月の更新をしなければいけない時期になりました。
そろそろ更新準備に取りかかろうっと。



徳風  第5号『はちす』

梵鐘の銘について



「ぶつ仏の遊履(ゆうり)したまうところの国邑丘聚(こくおうくじゅ)、化(け)を蒙(こうぶ)らざるはなし。天下和順(てんげわじゅん)し日月清明(にちげつしょうみょう)にして、風雨とき時をもって災れい起こらず。国豊かに民安し。兵戈(ひょうが)もち用いることなし。とく徳を崇め仁を興し、務(まつりごと)礼譲(らいじょう)を修す。」
                               『真宗聖典』78頁


 仏が遊行されるところは、国も町も村も、その教えに導かれない者はいません。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風も雨もほどよく、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮します。したがって武器をとって争うこともなくなるのです。
 人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじて、互いに譲りあうのです。(現代語訳)

真宗のことば 8


苦しい 悲しい 淋しい
その思いが如来を如来たらしめるのです。

真宗のことば 7



人間に生まれたのは 如来の本願を聞くためである。 伊藤 庄平

なぜ私は私なのか。
なぜ人間に生まれたのか。
何のために生きているのか。

これが人間の苦悩の根源である。

 しかし、我々は「人に生まれた」という、ごまかしようのない現実を身一杯に受け毎日を生きている。
それはまさに、人間に生まれたということである。

その苦悩する衆生を「必ず救う」と誓願をたてたのが如来である。
如来は我々の本有の願いを見抜き、真実をもって我々を救おうとするのである。

真宗のことば 6

あるものをおそれ
ないものを欲しがる。
これが悪人の問題。

 
      〜曽我量深〜

徳風 第4号『聞法道場』

   生きる?
         林田信也



 この「徳風」の創刊号で、「生きる」という言葉で自己紹介をさせて頂きました。生きるということが、自分の生活の中で具体的に表現されているのかということが、問題としてあったからです。いつ終わってもおかしくないこの人生を、「生きる」ことを問題にせずに過ごすのは、もったいないと思うのです。
 先日、子供のテレビアニメを見ていましたら、こんなシーンがありました。「今の日本は、心がからっぽだから、物で埋めるしかない。だからいらないものばかり造って、世界がどんどん醜くなっていく。」幼稚園児が見るような番組で、こんなことを訴えていかなければならない時代になってきているのだと肌で感じました。これは餓鬼道に堕ちたものの姿と重なります。餓鬼道のものは、自分を満たすことに必死で、自分の置かれている環境は問題にならないのです。どこまでも自己を肯定するあり方です。そこには仏様(真理)なんてものは必要がないのです。親鸞聖人は和讃でこうおっしゃっています。


自力作善のひとはみな
仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける



自分で自分を満たせると思っている人は
真理を知ろうとしないので
当然の結果として
宝に囲まれた地獄に行ってしまう

どうか真理に目覚めてください


 この「宝に囲まれた地獄」とはどういうことでしょう。
先に書きましたアニメには一つのテーマがありまして、においということで話が展開されるのです。
その時代その時代に、においがあったと。そして現代の日本には「きたない金と燃えないゴミがあふれている」というのです。見渡すかぎり宝で囲まれているがその恩恵としてにおうべきものがにおえなくなっておることに気づかされます。
七宝の獄に入ると、人間としての大事な感覚を失ってしまうように思えます。そのことにどうか気づいてほしいという願いから、先ほどの聖人の和讃は生み出されたのでしょう。その聖人は、真理に目覚めてくれと呼びかけられています。「生きる」とは、真理に出会って初めて具体的な内容を持った表現になっていくのではないでしょうか。

徳風  第3号『はちす』



 「彼岸」とは「到彼岸」を略したものです。これは古いインドのことばサンスクリット語の波羅蜜多を訳したもので、「彼岸へ到達する」という意味です。また彼岸は仏のさとりの世界、迷いや苦悩に満ちた人間の現実の岸(此の岸)を超えた彼の岸、つまり美しき浄土のことを指しています。では、どうしたら浄土の岸へ渡れるのでしょうか?
 念仏の信心が救いの究極ですが、通仏教的には左記の通り、六波羅蜜の教えというのがあります。

 一 布施 他人へ施しをすることをいやがらない。
 ニ 持戒 正しく清らかな生活を求め、常に反省する。
 三 忍辱 何事も辛抱強く堪えることを知る。
 四 精進 仏法聴聞に誠実に精進努力する。
 五 禅定 心を安定させ、静かな心境を得る。
 六 智慧 仏の真実の智慧をいただいて深く信じる。

 こうした徳目は本来なら毎日行じるべきなのですが、日頃は生活におわれ、また様々な誘惑に惑わされて、なかなかそうならないのが私たちの現実です。そこで、せめて春と秋、年に二回は実践しようというのが、お彼岸法要の意味です。お寺で行われる法座によく参詣して仏法に遇い、この六波羅蜜の教えによって迷いを離れて彼岸に至る人生観を頂くのです。
                                 (住職)