元宗務総長熊谷宗惠先生にきく。

嬉野温泉の大正屋にて前宗務総長、熊谷宗惠先生にお会いして、真宗同朋会運動についてお話をお聞きしました。

同朋会運動が発足して来年で48年。この歴史はある意味で重くもあり、この運動に生涯をかけた諸先輩一人一人にとっては決して昔の話ではないとおもいます。
2011年には宗祖親鸞聖人750回のご遠忌。その翌年には同朋会運動は50年を迎えます。昨今ではその運動に尽力された先輩方が次々に亡くなられていく中で、当時の運動の雰囲気を知っている方にお話を聞いてみたいということで企画を立ち上げました。

ことの始まりは、お待ち受けの企画会を開くにあたって、なにもかもあまりに手探りの状態で、まるでだだっ広い草原の草をどこからむしり始めればいいのかただ途方に暮れていました。そんな状態からこの企画会はスタートしました。

 同朋会運動が始まって以来、長崎教区の先輩たちが、これまでどのような運動を教区内で展開してきたのかも全く知らないままでした。

 本当の意味で新しいアイデアを生み出すのは、「歴史に学ぶ」ということから始まるのではないかと思います。
それは単なる歴史という紙に書かれた歴史ではなく、生き、かつ熱を帯びた成功と失敗の歴史のなかから新しい発想が出て来るのではないかと考えました。
ということで、これまでの歴史をなにも知らずに、全く新しいことを始めるのではなく、これまでやろうと思っていたけどやらなかったこと。これまでやりたくても出来なかったことはなんだろうという教区の本来の願いに戻ろうということからはじまりました。

 そして、過去の歴史の掘り返しが大事だということを思い出し、グローバルな視点で同朋会運動を学ぶということよりも、深く自教区を見つめることから宗門を見る事が大切だというようなことが話し合われました。

そこで、偶然に前宗務総長の熊谷宗惠先生が来崎されるという情報をキャッチしました。
そこで、長い間宗門のなかで活動されて来た先生の話を聞いてみたいということでお願いをしました。


先生はなんども真宗同朋会運動発足(1962年)当時の宗務総長、訓覇信雄〈くるべしんゆう〉師のことを語っておられました。



やっぱり当時の時代の中にいた人のことばは違うなと感じました。
いったい今という時代は本質的には変わっていないながらも、確かに違う。では一体どういう時代なのだろうか。そんなことを考えました。




そのあとは場所を移して、観想や勉強会の提案や、これまでの経緯がはなされ、なかなか面白い会でした。

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かくれ念仏の地を訪ねて

私は18日・19日の二日間長崎教区第一組の総代研修で“かくれ念仏“の歴史を学ぶために鹿児島へ行きました。
300年という一人の人間の一生ではとても量れない程の長い時間弾圧を受けてきた薩摩藩の念仏者たち。
その残忍な拷問に耐えてまで守り続けたものは何だったのか、また、命を懸けて伝えてくださった念仏の淳(あつ)さを、少しでも身に感じられればと思い参加させていただきました。
実際、家の柱を削ってその中にご本尊を安置(?)していたり、大人が4.5人入ると狭苦しいような洞穴を山の中につくり、そこにご本尊を安置していました。そのご本尊は現在見たならば買い替えることを勧めたくなるようなほどボロボロでしたが、そこには長い長い歴史を感じずにはいられませんでした。それらは今を念仏のご縁にして生きる我々に、単に信念の強さや信念に生きることの大切さを教えるものではないと思えます。
300年という長い時間弾圧に耐えてきたのは、大切なものを後に伝えるためでも仲間を守るためでもなく、どんな目にあわされようとも捨てることのできない“信”に行ききったからではないかと私は感じました。
その信が真なればこそ後を生きる者も、その確かなものに触れようとするのでしょう。
一人ひとりの信念がどれほど強くて立派なものでも2代3代先までは続かないのではないでしょうか。300年という長い時間は個人的な信念が伝わり広がるような時間ではありません。
個人を超えた“信”がその一人ひとりを生かし続けてきた事実が歴史となったのではないでしょうか。

         萬行寺役僧:林田信也

組門徒会研修 in 鹿児島

今日から2日間の日程で一組の門徒会は鹿児島に研修にいきます。
われわれは住職もいないので、その間留守を守ります。

去年は下関に行きましたが、今年は鹿児島です。



鹿児島には「かくれ念仏」があります。

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Wikipediaより転載ー

隠れ念仏(かくれねんぶつ)は、権力から禁止された浄土真宗(一向宗)の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること、或いはそれを行う者や集団を指す。
南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩では、三百年にわたり浄土真宗が弾圧されたため、これらの信仰形態の名残が見られる。
また、神道と習合してカヤカベ教のような秘密宗教も派生したが、基本的には本願寺教団に属し、浄土真宗の主流の教えを守る者をいう。東北の隠し念仏は別物と考えられる。

弾圧の始まり
浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩(相良氏)の方が早く、弘治元年(1555年)に遡る。この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加した。薩摩藩は慶長2年(1597年)である。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたのが原因と考えられる。
また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。これは慶長4年(1599年)日向国において庄内の乱が勃発、この首謀者である伊集院忠真の父・忠棟が熱心な一向宗徒という説があり、乱後に改めて正式に一向宗が禁止されたのはこのことが大いに影響しているものという説がある。
以後両藩に於いては約300年にわたり禁制が続けられた。

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萬行寺からは役僧さんの林田君と門徒会員4名が参加しています。
どんなレポートをしてくれるでしょうか。
それではレポートを期待しましょう。

ご遠忌おまちうけ準備委員会。



今回の会議は21日まで住職と房守がインドに行っていて留守番のため、萬行寺で行いました。
内容は、今月の23日に前宗務総長の熊谷宗惠宗師が長崎にみえられるというので、おまちうけ委員会では、同朋会運動の先端にたっておられた先輩方に直接話を聞く機会はあまりないことなので、この機会にぜひお会いしたいと連絡をしたところ、受けていただき嬉野の大正屋にてお話を聞くことが決定しました。
そこで当日の段取り、そして同朋会運動、宗門の動きに関して、なんの予備知識もないようではいけないとおもい、勉強会を開くことにしました。
いったい同朋会運動はどういう運動なのか、時代の雰囲気の中でどういう盛り上がりを見せて来たかということを話し合いながら、熊谷氏が宗総長時代の本廟でのお待ち受け大会の所信表明で「法蔵精神に立つ」という演説をされた文から同朋会運動について紐解いていくことにしました。


話は盛り上がり、夢中になってしまい、気がついたら4時に始まった勉強会は11時近くまで続きました。

<以下はメモ>

◉「家の宗教から個の自覚の宗教へ」とは。

<おまちうけ大会所信表明「法蔵精神に立つ」より文引用>
また「個の自覚」という「個」は、たとえ家族が同居していても「家庭なき時代の家族の時代」(精神医学者)といわれ、家族はバラバラの孤立した個となり、とても自立した豊かな個人とはなっていません。いうなれば孤独な個人、すなわち「孤人」に転落しています。人間は愛情のある暖かい「家庭(ホーム)」においてこそ育つものです。したがって家庭の回復こそ急務になってきているのです。


◯現在は家、家族の崩壊により個人がその時代投げ出されて行き場を失っている状態。
◯そういう行き場を失っている時代の中で「個の自覚」とはどういうことなのだろうか。
◯「個」という時は、それは『唯我独尊』の世界観ではないか。
◯それもある。だけれどすでに結びつきを失ってしまっている社会の中で、そのようなことを教えてくれる場が世間の中にどれだけあるだろうか。
◯「個」が行き場を失って彷徨っているのは、依って立つ立脚地が自己になってしまったことが現代社会の問題ではないか。
◯「個」という時、結びつきを拒否した「個人」、つまり他人に迷惑をかけないような個人といったところに人間が個別化していったのではないか。
◯だから「個の自覚」とは、如来を媒体として実は個人個人が深いところで繋がっているということを自覚するという意味の個のことではないだろうか。
◯そういう意味でいえば、「われは法蔵なり」と曽我先生が言ったけれど、その法蔵と我は繋がっている。でも法蔵は我ではない。そこが如来と我とは繋がってるということではないか。
◯だれもが潜在的には法蔵の精神を持っているということではないだろうか。そこで繋がっている。だから「法蔵菩薩はアラヤ識なり」っていったのではないか。
◯竹の譬えがよくされる。見えない土の中では根っこが繋がりあっている。ぼくらが個という時に自覚するということは、そういうことを知ることではないか。

◉同朋ということの意味。

◯同朋ということは三帰依文の「まさに願わくは衆生とともに」ということではないだろうか。
◯これまでの仏教全体が封建社会の延長線でそこに胡座をかいてしまったのではないか。明治の近代化によって仏教の時代は終わってしまってしまっているのに、長い間国教であったからそこにあぐらをかいていた。そこでいろんな問題が噴出して、ついにさまざまな事件として現れて来た。宗門は前近代的な体質を急いで変える必要があった。
◯それまでの体質に胡座をかいているものだから、いま苦しんでいる人に対して仏教が冷ややかだったのではないだろうか。
◯だから坊さんは「世間を知らない」と言われたり、「葬式仏教」などと揶揄されるようなことになるのではないか。
◯宗祖に帰れという意味はそういうことではないか。
◯宗祖は我々のことを「御同朋・御同行」とまで呼んででくれている。そのことに対して、ぼくら自身が世間的な意味での「平等」だったり、単に宗門の民主化という考えに当てはまってしまったような気がする。そこで同朋会運動が純粋な信仰運動だという側面をきうすにしたのではないか。
◯なにごとも解りやすく、理解しやすいように。たしかにそうしないと門徒は離れていく。しかし、あまりそれをやりすぎると仏事や作法が曖昧になったり、自分の都合に合わせて理解するようになってしまう。





◉真宗の門が開くとは

<おまちうけ大会所信表明「法蔵精神に立つ」より文引用>
ただし私がこう申したからといって世の中をただ慨嘆しているのではありません。むしろ私はここに<真宗>の「門」が見えている、あるいは門の前に来ていると思うのであります。と申しますのは、このような惨状(社会の状況)は、人間の尊厳と価値を憲法で保証され、人格の尊厳を謳われた教育基本法で教育を受けたはずの人々において起こっている事柄であり、近代の美しい人間規定は実際には全く破綻してしまっていることを証明してしまっているのではないでしょうか。ここにおいて近代の人間観ではなく、<真宗>の人間観こそがよりリアルに現実の人間を言い当てていることはあきらかであります。



◯近代の人間観の破綻したところに『真宗の門が開く』と表現しているけれどどういうことだろうか。
◯ピンチをチャンスに変えるということではないか。
◯破綻したといわれる現代社会にたいして、宗教者としてどう接点を持っていくかが大事ではないだろうか。
◯批判的なばかりではダメなときもあるだろう。



今日は涅槃会です。

今日は涅槃会です。お釈迦さまが入滅した日です。
つまりお亡くなりになったということです。
仏教では死は、過去のものになるのではありません。
お釈迦さまは、現在も生きて説法をされているという意味で「今現在説法/こんげんざいせっぽう」されているといわれるように。とくに釈尊の”入滅”という出来事は姿形は亡くなるけれど、『法』という用(はたら)きとなって私たちにはたらいているというように、未来の衆生(我々)に法を届けにきていると解釈しています。

おおよそ真宗のお寺では『涅槃会』は勤めませんが、他宗派では大事にされているのではないかと思います。もちろん真宗が大事にしていないということではありませんが、伝統的にでしょうか涅槃会は勤めていません。

児童教化連盟会議

今日は夕方から会議でした。

日曜学校の巡回の話です。
長崎教区は大谷派の全国にある各教区の中でも二番目に小さい教区です。めずらしく一県一教区です。さらに地域を3地区に分けると、萬行寺は長崎教区第1組(“いちくみ”とは読まず、“だいいっそ”と読みます。)になります。長崎市内を中心に諫早と島原までを第1組、第2組は外海地区、第3組は佐世保から東彼杵にかけてとなっています。
この3つの地区の中で、第1組が一番大きくて範囲も広く、寺院数は22ヵ寺です。そのなかで日曜学校を行っているお寺が少ないということから、集中的に児童教化をしていこうということになりました。
もちろん地域事情やお寺の事情によって出来ないところや行わないところ、それから教科活動の重点が違う等の諸条件はありますが、志のあるところには、各寺院が力を合わせてバックアップしようとうことになりました。
そこで、連盟では第1組の土曜学校・日曜学校のない寺院を中心に、各月ごとにそれぞれのお寺を巡回しながら土・日曜学校を行っていこうということになりました。
そこで初回は4月11日。清水町のにある照圓寺(しょうえんじ)で行うことにしました。

お子さんがおられる方はぜひお子さんを連れておいで来くださっててもけっこうですよ。

おわたまし

今日は夕方から川口家の新居への引っ越しです。
ここに新しい本尊がやってきました。
新築にともなってお内仏も新しくしました。立派な仕込み式のお内仏です。
お内仏のわきには4畳半ほどの仏さまのお給仕をするお仏具場(おぶくじょう)もついていました。

今日は川口家は一日引っ越で大忙しでしたが、ひとまず、今日はこれで終わり。これから新居に住むにあたって、まず親戚・家族一同そろって「わたまし」をおこないました。




『わたまし』は、わたって来れられるという意味で御移徙(ごいし)ともよばれ、家のお内仏に本尊である阿弥陀如来をお迎えする式のことです。
よく云われることですが、先祖の霊魂を入れたり出したりする儀式ではありません。仏壇の修理・購入や新居へ移動したときなどにお寺にお願いして行います。

これから新しい生活が始まります。


まさに本尊を中心にした生活が始まります。

銭座報恩講

長崎といえば『坂の町』。そう呼ばれることがよくあります。実際は坂の多さでいえば東京が日本一だそうですが、急な坂道にへばりつくように家々が並び海を見下ろす景色は長崎の風物詩でしょう。
 その代表といってもいい町が、銭座町といってもいいとおもいます。
爆心地近くの町並みを抜け、トーマス・グラバーの眠る坂本外国人墓地の急な坂を一気に登ると、長崎の街が一望出来ます。
正面には茂里町に新しく出来た長崎ココウォークの観覧車が見えます。

その坂の突き当たりにあるアパートが銭座集会所です。
今日はここで銭座町の報恩講をおこないます。ことしで27回目だそうです。
ここには『部落解放同盟 長崎支部』事務所の隣にたっているアパートの一階部分。
ここは公共施設となっているそうですがお内仏があります。

導師は善教寺。法話は萬行寺住職です。
この報恩講が始まったいきさつを話されました。

親鸞フォーラム


去年の12月頃だったと思いますが、今年の3月に予定されている東京有楽町の東京国際フォーラムで行われる『親鸞フォーラム』というシンポジウムのポスターを長崎の海をバックに撮影しました。
 (制作:デザイン・アルジュナ)

今月いっぱいまで、東京山手線の電車内の中刷り(横枠ポスター)広告と地下鉄有楽町線の電車中刷りにポスターが張ってあります。
東京にいる方はぜひご覧ください。

ちなみに遠くに写っているのが私(若院)です。
東京の広告なのに、なぜか写っているのは長崎の海・・・。なんだか変な気がしますね。 


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〜親鸞仏教が開く世界〜
講演 「人間親鸞のすがた」五木寛之(作家)
シンポジウム 「悩む力・生きる力」
パネリスト 姜 尚中(東京大学大学院教授)
田口ランディ(作家)
本多弘之(親鸞仏教センター所長)
コーディネーター 菅原伸郎(東京医療保健大学教授)
時間
会場 13時17時まで 開場12時30分
東京国際フォーラムB7(千代田区丸の内3-5-1)
JR・地下鉄「有楽町駅」徒歩1分
参加費
定員  無料 1200名
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