大谷派機関誌『真宗』<今月のお寺>レポート

長崎教区 真光寺



長崎県西海市大瀬戸町雪浦下郷一二一七番地

           住職 武宮 勲

日本の西の果て長崎。
東シナ海を眺めながら国道を走ると、ゆったりとした町並みのなかに大谷派のお寺が点在しています。
この辺りは長崎教区の第二組。遠藤周作の小説『沈黙』の舞台にもなりました。

 この地域は外海(そとめ)と呼ばれ、ほとんどの家が大谷派の門徒です。
江戸時代以前の大村藩。当時の領主、大村純忠はキリシタン大名とよばれ、キリスト教を信仰する大名でした。純忠は寺を焼き払い、コレジオ(教会)をつくるという政策を行い、長崎は東洋一のキリスト教伝導の一大拠点になりました。
その時代、長崎では仏教徒をキリスト教に改宗させ、ほとんどの寺と仏像が焼かれたという記述が残っています。
江戸時代に入り、大村藩は幕府の命令を受け日蓮宗に改宗。その後、キリシタン取り締まりのため長崎に日蓮宗と真宗の寺院が次々に建てられました。明治時代になってようやくキリシタン弾圧が終わった頃、次々に瓦屋根の教会郡が建てられました。この教会群は日本でも古く、全国的にも珍しい教会郡で、今では長崎観光の目玉にもなっています。

 そういった歴史のなかで、ここ外海では真宗の教えが護られてきました。とくに雪浦にある真光寺はそのなかでも独特で、真宗の教えが生活に深く根づいています。
 真光寺の境内には天保年期に第十代住職、勲能(くんのう)が開いた学寮がありました。勲能は碩学の僧として近隣に名高く、遠くは広島・四国からも遊学の僧や向学の士が訪れ、勲能の教えを請うたという記録が残されています。
そして、そこで学んだ学僧がお説教の実践のため、両度のご命日で本堂に集まった門徒に法話をしてきました。それが終戦後まで続いたということです。
そういった伝統と土徳もあってなのでしょうか「全国的に勢いがなくなっている傾向のなかで、この十五年ぐらい前から在家報恩講を行う地域数もお寺の参詣も増え続けています。以前はきまった同行が必ずお参りしていました。最近ではそれに加え、現役の総代・前総代・講頭・婦人会・推進員のほとんどがお参りするようになり、それぞれが周りの人たちを誘いあってお寺にくるんです」と武宮勲住職。
これまで在家報恩講をやっていなかったところも、「自分たちもやろう」ということで盛んになってきました。町には「おくんち」というお祭りもありますが、最近ではお祭りよりも報恩講の方が盛んになってきました。どの地区も参詣人が多く、会館や各家を道場とし、そこに入りきれないほどの人が集まるそうです。
「報恩講前日から地域の子どもから大人までが集まり、餅つきから・仏華・お斎まで一日かかって準備します。なんでも自分たちでやるんです。」とのこと。
どこの荘厳の立派さを競い合いながら盛り上がってるようです。
「門徒さんは、お寺のことによく協力してくれます。なによりも喜んでやってくださるんですよ。町の人もみんな門徒ですから、学校のクラブ活動も日曜学校が終わってからするようになっていますし、自治会も総代や講頭と相談してお寺の行事に参加するよう呼びかけてくれるんです。」
「報恩講では雅楽・仏華・お華束も、私が何も言わなくても門徒さんたちでやってくださりますし、声明方は女性や高校生もきています。」

「衰退するから諦めるのではなく、むしろ、任せるべきところは門徒さんにまかせて一緒にやればいいんです。きっと皆さん喜んでやってくれますよ」と、住職は語られました。

(長崎教区通信員 亀井 攝)


作上がり法要

二日間の法要が終わりました。
地域によっては虫供養と呼び習わしているところもあるそうです。農業をするということは、たくさんの虫たちを殺して生きざるをえないことからそう呼ばれているそうです。
萬行寺の場合は、今はほとんど農業で生業を立てている家庭が少なくなりましたが、昔からの習慣で「作上がり」と呼んできました。作付けがおわって時間ができたから、お寺に参ろうという習慣からそうよばれています。





お寺の法要が終わると、町では海や土の神への奉納のお祭りとして始まった「ペーロン」と呼ばれるボートレースが行われます。


今となっては町には漁業家もいなくなり、農業をする家も少なくなり、海や土に感謝する習慣自体もなくなりつつありますが、今ではイベントという形で残っているようです。
しかし、その由来、謂(いわ)れを知って行っている人は少ないように思います。




ところで、今回の法要は「正信偈」についてでした。念仏の謂れを聞くということ、なぜ仏が我々に願っているのか、何を私たちに願っているのか、なぜあ南無阿弥陀仏と称えるのか、阿弥陀仏とは何か、その謂れを聞くことが”要”であると話されました。





蓮の花が咲きました。













蓮の花は仏教を象徴した花です。
蓮は泥の中にきれいな花をつけます。きれいだからといって、沼の中の泥を取ってしまうとたちまちに花は枯れてしまいます。
泥は娑婆世界を現し、蓮の花はそのただ中に正覚の花を咲かせるのです。娑婆世界の汚れた世界の中にあってもその世界の汚れに染まらない花を咲かせることから『正覚の華』という表現で呼ばれています。
ほとんどの仏像が蓮の花の上に立ったり座ったりしていますが、それは正覚の華に化生したという表現なのです。


いくつかの覚え書きとして



7つの社会的罪     Seven Social Sins

1)理念なき政治   Politics without Principles
2)労働なき富    Wealth without Work
3)良心なき快楽   Pleasure without Conscience
4)人格なき学識   Knowledge without Character
5)道徳なき商売   Commerece without Morality
6)人間性なき科学  Science without Humanity
7)献身なき宗教   Worship without Sacrifice

<ガンジーの碑文より>

頭が痛いかぎりです。まったく。

テレビで一句



    食品偽造の悲しみは
    損得ばかりにながされて
    捨てられたいのちの
    悲しみよ。



おそらく捨てられていくだろうウナギの気持ちはいかがなものなのでしょうか。

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