白道会 還暦祝い

萬行寺には白道会(びゃくどうかい)といわれる男性の門徒会があります。
今日はその会の還暦者のお祝いをしました。
会長さんの尽力もあり、毎年の参加者は2〜3人ほどだったものが、今年は40人ほど集まり、とても盛況でした。


<住職のはなし>

60歳という年齢は、定年になったりと人生も終盤になって行く頃です。
ということは、いままで走りに走り続けた人生を今こそ見直す時期です。
これから先、一人一人と友人や家族などが亡くなっていったり、子や孫ができたり、行く行くは自分もそのようにしていのちを終えていくものだということが、無常の道理としてしみじみと感じられる歳になって来ているはずです。
そういうことも含めて、自分の人生の道場として、お寺に集い仏の教えを聞いていくものになってください。


今年還暦を迎える人は7人が来ました。

そのあとの食事の時も遅くまで酒を飲んで賑やかでした。



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朝の風景











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2月15日  涅槃会/ねはんえ

今日は『涅槃会/ねはんえ』とよばれ、お釈迦さまの命日にあたります。

お釈迦様はインドの北に住む小国、釈迦族の王子として生まれました。そこでの暮らしは何不自由のない生活をされていたようです。しかし、世の非常に悩み、その生活を捨てて29歳で出家されます。
その後の修行は仙人のもとで修行したり、さまざまな苦行をしましたが悟りは得られませんでした。
ただ肉体を痛めつけるだけでは悟りに到達する以前に死んでしまうと思ったお釈迦様は、「悟りを得る為には肉体の回復が重要」であると、修行者には禁じられていた乳粥を口にします。
そうして苦行を捨て、35歳の12月8日ブッダガヤ(Buddhagaya 仏陀伽耶)で悟りを開かれました。

 それから80歳までの45年間、生きることに苦悩する人々に様々なかたちで自らの悟りの意味を説く旅をして一生を終えました。
そして、その最期の地は故郷に帰る旅の途中、クシナガラという場所にあった沙羅双樹の下でした。
その前日、師との別れを悲しむ弟子のアナンに一昼夜かけてお釈迦さまは『生まれたものは必ず死んで行くものである。いつまでもそのままではいられないのだ。』と語られています。
お釈迦さまの言葉を要約すると次のようになります。

死に往くことが苦しみであると人は云う。しかし、そうではない。
問題なのは、人は生まれたからには必ず死に往くものであると解っていながら、それを受け入れることが出来ないから苦しむのである。



その教えは「涅槃経」というお経になって『諸行無常』として伝えられ、日本人の私たちにも馴染みのある言葉として昔から親しまれています。

いろはにほへどちりぬるを  色は匂へど 散りぬるを /諸行無常  諸行は無常なり

わがよたれぞつねならむ   我が世誰ぞ 常ならむ  /是生滅法  これ生滅の法なり

うゐのおくやまけふこえて  有為の奥山 今日越えて /生滅滅已  生滅滅しおわりて

あさきゆめみじゑひもせず  浅き夢見じ 酔ひもせず /寂滅為楽  寂滅をもって楽とす



「耳なし芳一」で有名な「平家物語」の冒頭にも同じことばが使われています。

     祇園精舎の鐘の声        
     諸行無常の響きあり  
     沙羅双樹の花の色
     盛者必衰の理をあらわす 
     おごれる人も久しからず
     ただ春の世の夢のごとし  
     たけき者も遂には滅びぬ
     偏に風の前の塵に同じ  
 

祇園精舎の鐘の音は、この世のすべての現象は絶えず変化していくものだと響き、沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはいつまでも続かず、春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、ついには滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。

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バレンタインデー

今日はバレンタインデーです。
みなさんはいくつあげましたか?
それともいくつもらいましたか?

わたしはまだ0です。



依然、大谷専修学院の学生だった頃、竹中智秀院長の講義の中で、「バレンタインの方便」という話をされたのを思い出します。

「義理チョコにしろ、本命のチョコレートにしろチョコレートを渡すというのは、その人に対して自分の心を相手に解ってほしいと思う心を形として表すものですね。この心というものは目にも見えないし、色も形も匂いもない。言葉でもうまく言い表せないものですね。この人にはこのくらいの物、あの人にはお世話になったからいい物をあげようとか、この人は特別な人だからこの本命のチョコをあげようと色々工夫をするわけです。
そういう風にして、目に見えない、色も形もないものをチョコレートという媒体で表現していく、こういった無形のものを具体的な形にして表現する方法を仏教では『方便/ほうべん』といい、これによって見ることの出来ない如来の慈悲を表現します。」


なかなかウマい譬えだと思いました。

 この方便という表現方法によって表されたものが、『真宗の本尊』として親しまれているみなさんの家庭のお内仏の中央に安置された阿弥陀如来という佛様です。
一般家庭にあるものは大谷派では絵像をかけるようにとされていますが、事実は様々で木造や、「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」などと書かれた名号などもありますが、どれも色もない形もない、言葉では表せないものをわざわざ形にまで表してまでくださっているのものです。

 真宗本廟(東本願寺)から下付されたものの裏を見ると、『方便法身の尊形/ほうべんほっしんのそんぎょう』と書いてあります。この裏書きがとても大事です。
一度、確かめてみてください。


あした十五日はお釈迦さまの命日にあたる『涅槃会/ねはんえ』です。


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 さいわい横川には、かつて源信僧都という浄土教の
先覚者がおられました。

東塔や西塔が栄華をきわめ堕落したときでも、横川
だけが本来の面目をたもちつづけ、山の念仏は源信
僧都によって伝統がまもられ、ひろめられていたと
いわれています。

恵信尼さまの手紙と、『伝絵』の「楞厳横川の余流を
たたえて・・・・」とをあわせ考えてみると、横川の
首楞厳院で堂僧として、不断念仏の行をはげまれた
ことがうかがわれます。



  不断念仏というのは、仏の救いにあずかるために
道場にこもって、身はつねに阿弥陀仏のお像のまわり
をめぐり、口はつねに阿弥陀仏の名を称え、心はつねに
阿弥陀仏を念じつづけることによって、阿弥陀仏と行者
がひとつに融けあう、三昧の境地にいたることができると
いうものです。

そのためには、いっそう堅固に戒律をまもり、心を平静
にたもち、正しい智慧によって真理をさとらねば
なりませんから、その行者としての聖人は、戒律と
禅定と智慧という三学に達した聖僧として、いままで
にもまして刻苦精進されました。

こうして自分の心を清らかに静めてゆくことによって、
いつかはかならず心のなかに阿弥陀仏があらわれ、
救ってくださるにちがいないと信じられたからであります。

しかし聖人はただのいちども、救われた境地にひたることは
できませんでした。



 そこで修行のやりかたを変えて、一心不乱の称名を
説く『阿弥陀経』にもとづき、また源信僧都の『往生要集』
に示された「往生の業は念仏を本となす」の指導によって、
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と仏の名を称え
られました。

こうして仏の名を称えて一心に救いを念じておれば、
仏はその願いにこたえて、きっと自分を救ってくださる
ものと思われたからであります。


 だが、どれほど一心不乱に念仏を称えても、救われた
よろこびの心をもつことはできなかったのです。

聖人の心には苦悩の闇が深まるばかりでありました。

くろぐろと巨大にそびえる山の端に、天を斬るような
上弦の月は光っていても、このなやみを解決して
くれる教えも人も、もはやこの比叡山には見あたらぬ
ように思われるのでした





また七高僧の一、源信僧都はこうもいわれています。

また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい 有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

                             真宗聖典 p961

今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その4

迷ったことのないものに目覚めるということはない。










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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その3

  助業と正定業

本願名号正定業/本願の名号は正定の業なり   正信偈<真宗聖典p204>

 断惑証理という考えに疑問を抱き、親鸞聖人は比叡山を下り法然聖人の元に行かれます。
その時、法然上人は観経疏を読み専修念仏を首唱してから23年が経っています。年齢は69歳。
その上人の説かれる浄土教は、”煩悩は往生の妨げにはならない”として、「煩悩をかかえていても涅槃を得ることができる」と説かれていました。
それまでの仏教はさとりを開くことが中心だったのに対して、「念仏申せば浄土に往生して仏に成る」といわれ、”一切衆生悉有仏性/一切の衆生はことごとく仏に成ってほしいと如来に願われている”ととかれていました。
 そこには生き物を殺したり、商いをしたりする者や、または武士や公家などが苦難を超える道を求めて来ていたといわれています。
そういった様々な煩悩を抱えて生きていかざるをえない人々に浄土教は広く受けいられていきました。
その法然上人の教えはただ一つ、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏して弥陀たすけられよ」ということでした。

 まさに念仏をするための念仏、つまり称名念仏中心の生活を選びとることを「正定業」とし、その修行を要とされていました。
煩悩が往生の邪魔をして念仏が出来ないようなら、持戒はしなくともよい。むしろその煩悩を友とし、師とすれよい。ということを法然上人はいわれています。
逆に煩悩を断じなければ念仏が出来ないであるようなら、持戒をもって修業すべきであるということをいわれています。
法然上人自身は、著書『選択本願念仏集』の中で持戒(戒律をたもつこと)は雑行であると書かれています。
しかし、その源空上人(法然上人)も比叡山におられた頃も、後に比叡いの山を下りられてからも自らは受戒を怠らず、生涯結婚されなませんでした。

 また、念仏をすることを勧め、その修行を助け、念仏することの意義に目覚めさせてくれるものを、「助業」といいます。
それは煩悩に悩まされる私たちであるからこそ、念仏して生きなければならないことを煩悩に教えられ、勧められる縁になるからです。
我々が日ごろお墓参りをしたりするのも、そもそも念仏の勧め、仏縁にあって念仏をすることをすすめてくれる「諸仏として先祖」として出会えているかということが大事あり、そこで念仏に出遇えないような出会いであればすべきでないと法然上人はいわれるのでしょう。
 
 
 しかし、吉水教団内の問題は、「念仏さえ称えていればどんなことも障りにはならない」として、法然上人の教えを取り違え、平気で悪事を行ったり、「煩悩を断じる必要はない」と言いふらし、かえって教団に対し無用な混乱と非難を引き起こす者もでてきました。
そういった教団内での浄土教に対する誤解や風紀の乱れなどもあり、吉水の教団は既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になったのです。

このことは、その当時だけの問題ではなく、現代を生きる私たちにも共通した問題があるように思います。
”煩悩はどんなに頑張っても消せるものではない。”ということを聞くと、逆に「なにをしてもいい」などと言ってみたり、「どうせ煩悩具足の身なのだから」といって肉や魚を食べても感謝がなかったりする。
例えば、そういった煩悩を抱えて生きざるをえない罪の深い我が身にたいして、どこまでも慚愧なく無自覚であれば、それは吉水教団が混乱に陥った状況と同じことではないでしょうか。







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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その2

前回は親鸞聖人が比叡山での煩悩を断ずる修行についての疑問でした。

では、釈尊の修行とはどういうものだったのでしょう。
しかも、その厳しい修行をした釈尊の教えから、なぜ煩悩を断ぜずして涅槃を得ると親鸞聖人はいえたのでしょうか。

 太子(釈尊)の修行生活は六年の長期にわたった。
極端な断食をはじめとして、心を統制して呼吸を止めるなど、言語に絶する苦行を実修した。
太子の体は枯れ木のようにやせ衰え、生きた屍のようになったが、心が平静となっても、迷妄からの解脱の望みはみえてこなかった。
かくして、そういう苦行一辺倒の修行は、肉体の疲労困憊により、かえって精神の働きを朦朧とさせるだけで、精神を明晰にすることによって、迷妄を断ち切るという目的を達成しうるものではないことを悟った太子は、むしろ、肉体を健全に保つべきではないかと考え、ついに苦行をすてる決心をした。
6年の勤苦の座から、かろうじて身を起こして立ち上がった太子は、ネージャランジャラー河の流れで身を洗い、やっとの思い岸辺に見を横たえ、深い眠りに入った。折しもそこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥により、衰えた体力を回復していったのである。


                     東本願寺出版『大乗の仏道』より一部抜粋


そうして釈尊は、煩悩を断ちつくす事によって修行を完成するということの無益さを知るのです。
しかも、そこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥によって”食べなければ生きていけない”人間の現実を教わったのかもしれません。
肉体を健全に保つには、食事を食べることが必要です。逆にいえば食事をとらなければ健全な修行も肉体も思考も成り立たないといえるのです。




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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る 1

      比叡山での修行の疑問

親鸞聖人在世のころは、釈尊入滅してすでに千年以上が経ち、すでにさとりが適わない時代、末法の時代といわれて久しかったのです。
そんな頃の比叡山での修行テーマは、「断惑証理/だんわくしょうり」といわれていました。
”人間の心は元々清浄なものである”という考えに基づき、あらゆる煩悩を断ち尽くす事によって清浄な心になり、さとりに達するといわれていました。
いわば、諸行成就の修行によって覚者となった釈尊を追体験し、釈尊と同じ悟りが得られるとしてきました。

 そのためには、それを妨げるさまざまな欲望や、深い執着に打ち勝とうとする強靭な菩提心と精神力でもって、持戒(戒律を守ること)し、そのことをより間違いなく勤め励むことが求められました。
 そのような人間の精神力に対する大きな信頼の上に、断惑証理という修行が成り立っていたのです。
しかし、いくら断っても断っても常におそってくる洪水のような煩悩の大河にいつでも押し流されないように出来るのは並大抵のことではありません。
むしろそれを断とうとすることによってさらに煩悩の焔が燃え盛るのを聖人は感じていのでしょう。
修行すればするほど、若き日の聖人は自らの凡夫性に目覚めていったのかもしれません。


インドから中国北部のシルクロードを通り、海を渡って日本に伝わった仏教は「大乗仏教」といわれ、全ての人が無条件に平等に救われる道です。
聖人は後の著書、『教行信証』の総序の文に

        難度海を度する大船        真宗聖典p149

と大乗仏教を表現されました。
人生の苦悩を海にたとえ、その苦難の海を有縁の人々と共に渡っていく大きな船であるといわれています。
しかし、大乗の根本道場といわれた比叡山では、厳しい修行に耐え、精神を磨くことがテーマでした。聖人も不断念仏をとなえる常行三昧堂の堂僧勤めをしていたといわれていますから、ずいぶん若い頃には厳しい修行をされていたようです。
その成績も山の中では優秀だったといわれています。

しかし、そういった厳しい修行が修められる者だけが仏に成れるのだとすれば、大乗の仏道は成り立たない。
まして餓えや飢饉で苦しい現実を生きなければならない人々や、海山に狩りをし、漁をする人々。食うために客にご機嫌を伺って生活を成り立たせる商人はどうして行けばよいのか。
さらに、女人禁制のこの山。不浄といわれ、仏縁を結ぶことさえ出来ないといわれる女人はどうやって救われていくのか。
そういった限られた人にのみ許される仏道修道のあり方に聖人は純粋な疑問や矛盾を感じていたのです。


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2月になりました。

とうとう2月に突入です。
ことしは閏年。

ということで2月 更新しました。

報恩講がおわって、ほっとしていると月末・・・・。
また部屋にこもりっきりです。

報恩講のレポ−トも遅ればせながら更新していきます。
 
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