2007.11.30 Friday
引き続き罪の問題
この五悪・十悪(または十善戒)の戒律は、基本的な戒めとされ、これを守って、善行修行(良い行い)をつむことによって、自ら仏に成っていこう(成仏する)というものです。
善根功徳の思想は、法然上人や親鸞聖人が登場するまで、仏教の主たる修行のスタイルでした。
大乗の菩薩道を修する最高峰、比叡山はさまざまな高僧を排出してきました。
そこでの修行は、断惑証理(だいわくしょうり)が掲げられ、
これは、人間の心は元々清浄なものであるという考えが基本にあり、修行して煩悩の誘惑を断ち切り、迷わされない仏に成っていこうというものです。
これは釈尊の修行を追体験することによって悟りを開こうという修行方です。
現代人からすると、そんなことはナンセンスだとか、有り得ないことだとか、無理なことだと、はじめからあきらめてしまうかもしれません。
しかし、よくよく考えると、最近、私たちを取り巻く環境や状況、さまざまな不可解な事件などが起こってくる時代背景を思えば、自分と向き合う大事な機会を安易にナンセンスだと言って切捨て、受け入れないことこそかえって時代を混迷の中に追いやる原因になっているのでしょうからあながちにナンセンスだともいえないのではないでしょうか。
私たちは欲望の赴くまま暮らしていくことが果たして本当の幸せなのかもう一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。
ですから、このことは初めから出来ないと諦めてしまわず、出来る限り精進する志を持つことは一つは大事なことでしょう。
しかし、それはわたしたちの生活の現実から言って完全に守りきることは
無理なことも事実です。
社会そのものがそういったことの上に成り立ってしまっている以上、やはり、ある程度、嘘をつかないと娑婆世間では生きていけないこともあります。
嘘をつけば人を傷つけてしまうし、それによって自分自身も、その罪に苛まれることもあります。
または、運が悪かったと運命論的になったりすることです。
そこで問題になるのは、その罪を罪だと思わない無自覚な人と、短絡的な諦めです。
五悪・十悪の問題は、罪の自覚の問題であり、それが守りきれる人間になることを目的としていません。
人によっては、状況によっては守ることの出来ないこともあります。
しかし、そのときに問われるのが、その罪に対して短絡的、無自覚であれば、他人や自分を傷つけていても不感症であれば、。
しかも『いましめ』なのですから、自覚の問題をいっているのです。
→つづく
善根功徳の思想は、法然上人や親鸞聖人が登場するまで、仏教の主たる修行のスタイルでした。
大乗の菩薩道を修する最高峰、比叡山はさまざまな高僧を排出してきました。
そこでの修行は、断惑証理(だいわくしょうり)が掲げられ、
これは、人間の心は元々清浄なものであるという考えが基本にあり、修行して煩悩の誘惑を断ち切り、迷わされない仏に成っていこうというものです。
これは釈尊の修行を追体験することによって悟りを開こうという修行方です。
現代人からすると、そんなことはナンセンスだとか、有り得ないことだとか、無理なことだと、はじめからあきらめてしまうかもしれません。
しかし、よくよく考えると、最近、私たちを取り巻く環境や状況、さまざまな不可解な事件などが起こってくる時代背景を思えば、自分と向き合う大事な機会を安易にナンセンスだと言って切捨て、受け入れないことこそかえって時代を混迷の中に追いやる原因になっているのでしょうからあながちにナンセンスだともいえないのではないでしょうか。
私たちは欲望の赴くまま暮らしていくことが果たして本当の幸せなのかもう一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。
ですから、このことは初めから出来ないと諦めてしまわず、出来る限り精進する志を持つことは一つは大事なことでしょう。
しかし、それはわたしたちの生活の現実から言って完全に守りきることは
無理なことも事実です。
社会そのものがそういったことの上に成り立ってしまっている以上、やはり、ある程度、嘘をつかないと娑婆世間では生きていけないこともあります。
嘘をつけば人を傷つけてしまうし、それによって自分自身も、その罪に苛まれることもあります。
または、運が悪かったと運命論的になったりすることです。
そこで問題になるのは、その罪を罪だと思わない無自覚な人と、短絡的な諦めです。
五悪・十悪の問題は、罪の自覚の問題であり、それが守りきれる人間になることを目的としていません。
人によっては、状況によっては守ることの出来ないこともあります。
しかし、そのときに問われるのが、その罪に対して短絡的、無自覚であれば、他人や自分を傷つけていても不感症であれば、。
しかも『いましめ』なのですから、自覚の問題をいっているのです。
→つづく