引き続き罪の問題

 この五悪・十悪(または十善戒)の戒律は、基本的な戒めとされ、これを守って、善行修行(良い行い)をつむことによって、自ら仏に成っていこう(成仏する)というものです。
善根功徳の思想は、法然上人や親鸞聖人が登場するまで、仏教の主たる修行のスタイルでした。

 大乗の菩薩道を修する最高峰、比叡山はさまざまな高僧を排出してきました。
そこでの修行は、断惑証理(だいわくしょうり)が掲げられ、
これは、人間の心は元々清浄なものであるという考えが基本にあり、修行して煩悩の誘惑を断ち切り、迷わされない仏に成っていこうというものです。
これは釈尊の修行を追体験することによって悟りを開こうという修行方です。

 現代人からすると、そんなことはナンセンスだとか、有り得ないことだとか、無理なことだと、はじめからあきらめてしまうかもしれません。

 しかし、よくよく考えると、最近、私たちを取り巻く環境や状況、さまざまな不可解な事件などが起こってくる時代背景を思えば、自分と向き合う大事な機会を安易にナンセンスだと言って切捨て、受け入れないことこそかえって時代を混迷の中に追いやる原因になっているのでしょうからあながちにナンセンスだともいえないのではないでしょうか。

私たちは欲望の赴くまま暮らしていくことが果たして本当の幸せなのかもう一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。

 ですから、このことは初めから出来ないと諦めてしまわず、出来る限り精進する志を持つことは一つは大事なことでしょう。

しかし、それはわたしたちの生活の現実から言って完全に守りきることは
無理なことも事実です。

社会そのものがそういったことの上に成り立ってしまっている以上、やはり、ある程度、嘘をつかないと娑婆世間では生きていけないこともあります。

嘘をつけば人を傷つけてしまうし、それによって自分自身も、その罪に苛まれることもあります。
または、運が悪かったと運命論的になったりすることです。
そこで問題になるのは、その罪を罪だと思わない無自覚な人と、短絡的な諦めです。
五悪・十悪の問題は、罪の自覚の問題であり、それが守りきれる人間になることを目的としていません。
人によっては、状況によっては守ることの出来ないこともあります。
しかし、そのときに問われるのが、その罪に対して短絡的、無自覚であれば、他人や自分を傷つけていても不感症であれば、。

しかも『いましめ』なのですから、自覚の問題をいっているのです。

                              →つづく

ふたたび罪の問題

  
 1、戒のことについて

 仏教には『戒律』があります。
これは、仏教徒が守らなければならない戒めとしてのルールです。

「戒名」といわれるものは、基本的に仏教徒であるという証として、戒律を受戒したことを示しています。
(真宗では戒名とは呼ばず『法名』といい、また違った観点の意味をもっています。
法名についてはまた別の機会に書いてみようとおもいます。)

ですから、仏教徒になるということは、日々の暮らしの中に、争いごとやいざこざの原因になることや考えや行ない、争いごとを起こしたくなるこころの有り様をつつしみ”いましめ”て精進し修行するのです。

 その戒律とは十の罪として表され『五悪・十悪」といわれ、まず否定形で説かれます。
順番からいえば、果から因へとなっています。

最初の『五悪』とは次の5つです。

1 不殺生/ふせっしょう・・・・生き物を殺してはならない
2 不偸盗/ふちゅうとう・・・・盗んではならない
3 不邪淫/ふじゃいん・・・・・淫らな男女関係を結ばない
4 不亡語/ふもうご・・・・・・嘘をついてはならない
5 不奇語/ふきご・・・・・・・飾り立てた言葉や、調子伺いのことばを言ってはならない

さらに五つの悪行をたして十悪です。それは次の5つです。

5 不綺語/ふきご・・・・・・・きれいごとや飾り立てた言葉を言わない
6 不悪語/ふあくご・・・・・・悪口を言ってはならない
7 不両舌/ふりょうぜつ・・・・二枚舌を使って互いを争わせる行為をしてはならない
8 不瞋恚/ふしんに・・・・・・おこってはならない
9 不邪見/ふじゃけん・・・・・よこしまな考えをおこさない
10 不貪欲/ふとんよく・・・・・むさぼってはならない


これが十悪といわれるもので、このことを守る事が善行であるといわれていることから、今度は否定形ではなく、進んで行う行として十善戒(じゅうぜんかい)とも呼ばれています。


   1〜3の問題=『身』で行う罪(身業/しんごう)の問題

 世間では殺人、強盗、強姦などの罪を実行すれば、社会的にも罰せられる。
これは世間的にみても、世間の倫理、道徳に照らし合わせてみても、罪としてわかりやすいものでしょう。
 
   
   4〜7は『口』で行う罪(口業/くごう)の問題

この場合、世間では直接に罰せられることはないが、犯罪行為にいたる動機にはなりうる。
仏教では、争いごとの元になるものは厳しく戒められることから、その戒律を犯したものは罪とされる。


   8〜10は『意/こころ』で行う罪(意業/いごう)の問題


たとえば、殺人。
「人を殺したい」という動機がなければ、実行はしない。
それと同じで、この場合の問題は、こころがそういうはたらきを起こしたという『縁』により、殺人という『因』が発生する。
そういったこころをおこさないように戒律は説かれている。




戒律の問題は、すべて『縁起の法』の考えから発生しています。
つまり、すべての原因はこころのはたらきよりおこるのであって、こころがあらぶったり、よこしまな考えを興したりするような場所や行為をするなら、それが因となって、結果的には行為に及ぶとされます。
ですから、そのような行為を慎む事によって自分や周りの人を苦しめることとなる原因つくらないよう薦めているのです。




11 月28日は親鸞聖人のご命日です。

 読書きょうは旧暦の宗祖親鸞聖人の747回目のご命日で、いわゆる祥月命日にあたります。真宗十派のうち、東本願寺(大谷派)・佛光寺(仏光寺派)・興正寺(興正派)・錦織寺(木部派)・誠照寺(誠照寺)・専照寺(三門徒派)・證誠寺(山元派)の七派の本山では今日、結願(けちがん/結びの法要)を迎えています。( 出雲路派の豪摂寺は12月)
 新暦は1月16日にあたり、本願寺派の西本願寺と高田派の専修寺でそれぞれ報恩講が勤まります。
真宗本廟(東本願寺)では、結願日中で坂東節というお勤めで、賑々しく法要が結ばれます。



 747年前、親鸞聖人は郷里、京都で92歳の命終をむかえられました。
その様子を傍で静かに見取った娘、覚信尼が、遠く関東で暮らす母親(聖人の妻)、恵信尼に宛て父親の往生の知らせを送っている文章が残っています。
恵信尼は、親鸞聖人命終の日の11月28日の様子を「特別に天変地異などが起こるようなこともなく、いつもと変わらない穏やかな日だった」ということを返事に書き送っています。なんともあっけないぐらい、静かな手紙です。

 ということで、去年も書きましたが、萬行寺もいつもと変わらない静かなご命日を迎えました。



読書<報恩講の由来>

 はじまりは法然上人の遺言『滅後二箇条』に依っています。
法然上人はこの遺言で、私が死んだ後は、世間で行われている追善の仏事を勤めるのではなく、報恩の志のある者はただ一向に念仏を酬報(しゅうほう)する報恩の仏事をしてほしいと述べられています。
 その上人滅後、弟子たちは結局、世俗の仏事の習慣に従って仏事を勤めましたが、それは形式的には世俗の仏事と変わらないものでも、内実は日本で初めて勤められる報恩としての仏事であったと伝えられています。
七七日(中陰)の仏事を勤め、六七日には聖覚法印(せいかくほういん)が導師となり、表白文(ひょうびゃくぶん)を読まれています。
その中に我々真宗門徒には親しみ深い「恩徳讃」の原型になったといわれる

   
「倩(つらつら)教授の恩徳を思えば、実に弥陀悲願に等しきものか。骨を粉にして之を報ずべし、身を摧きても之を謝すべし。依って報恩の斉 会眼前に修して、値遇の願念心中に萠す。」
         『法然上人御仏事表白』、『聖教全書五』拾遺部下P92

という文が読まれています。(親鸞聖人はこの知らせを関東で聞いています。)
 
それがその後、親鸞聖人の滅後、『報恩講私記』が作られたのをきっかけに報恩講として毎年勤まる事になりました。



  

読書<追善の仏事(追善回向)について>

 追善の仏事というのは、死後霊魂が迷わないように、親しい者たちがそのものに変わって善魂功徳(例えば、追善の念仏や追善供養。死後の奉公=遺族の死者への罪滅ぼしのようなこと)を積み、その功徳を亡き人に差し向ける(回向する)ことで、そのものが迷わず成仏できるようにと願って勤められる神事的仏事のことです。
 これは巷でよくいわれている閻魔大王などに代表される冥官の裁判の話などがその典型で、これは輪廻転生に基づく『罪業の問題』に非常に深い関係があります。

 これは、『仏説 地蔵菩薩発心因縁十王経』という”偽教=仏教の教えではないもの”に具体的に書かれていています。(これは“仏説”とついていますが、仏教の経典でもありません。)
 「罪(=穢れ)を消さなければ、浄土に往生できない」という、『穢れ』の思想、不浄思想や神事てきな考えから来ています。
 例えば、七七日・百ヶ日・一年・三年・七年・十三年・十七年・二五年・三三年の十五仏事の間、追善して後、三十三年が『清浄忌』といわれ、生前に犯して来た罪の数々の判決が下り、穢れ(=罪)が浄化され、その霊魂は五十年(忌)を経て、家の先祖と同一化していくといわれています。
 この追善としての仏事は結局、追善回向することによって死者の霊魂を六道に輪廻させないで浄土に往生させ、成仏させ救済させていくことが願われているもので、これは形式的には仏事と思われている傾向が強いのですが、事実的には道教的な側面と『神事』と言える側面が強く、実際には釈尊の教説ではなく、中国の道教思想から来ているもののようです。







読書<罪(=穢れ)について>

法然上人はそういった通俗的な仏事ではなく、一向に念仏を酬報(しゅうほう)する報恩の仏事を勧められています。これはそういった罪や穢れを消さなければ浄土に生まれなられないということではなく、自らの罪(五逆・十悪・誹謗・正法)を自覚することによって正定聚の位に定まるのだといわれるのです。

 歎異抄には次のようなことが書かれています。要約すれば次のようなことです。
一回の念仏で八〇億劫の罪、十回の念仏でその十倍の罪というふうに、善魂功徳(追善の念仏)を積めば積んだ分だけ、その罪を除くと経典に説かれている。これは、これまで念仏を申して生きてこなかったものが、その命尽きるとき、はじめて良き師に出会い、念仏の本当の意味を教えられ、これまで念仏を申さないで生きて来たことそのものが、如来(真実に生きるものを)を裏切り、傷つけていたことを知り、心から念仏する意味に目覚めた時、自らが犯して来た数々の罪業を滅すといわれる。
これはその罪の重さを知らせる方便(譬え、表現方法)であって、罪を消すと言っているのではないのです。しかも罪(=穢れ)は往生の妨げになるというのでしょうか。
というものです。
 
「八〇億劫の罪」とは、われわれが生まれる以前から、先祖代々積み重ねて来た罪業のことで、
つまりこれは何を云わんとしているのかといえば、因果応報のことを指し、人間として生まれた時点でこれまでの人間の罪を一身に背負い産まれてきたということを示しています。
この世に生きるうえにおいてその罪への自覚がないことが深い罪であるというのです。
しかし、それは誰もが平等に抱えている問題であって、逆にそれは救いの縁になるのであるから、罪を消さなければいけないとはいっていません。
 むしろそういった「罪業深重の者をこそ救う」と誓っているのが、阿弥陀如来の平等心、つまり大慈悲であるのです。
 ですから、その罪は消えないし消す必要もない。これは言い換えれば、ピンチをチャンスに変える絶好の縁であり、しかも、すでに助かっているのです。

そのことに責任を持つと自覚の信をもって生きる者になることで、罪を滅さずとも正定聚の位に定まる(浄土に産まれることが決まる)のだというのです。

また正信偈には

『不断煩悩得涅槃/煩悩を断ぜずして涅槃を得る』

といわれています。

 そういうことで、報恩の仏事とは『如来の恩を報ずる仏事』であるということです。


読書<感謝の念仏と報恩(如来回向)の念仏>
 
報恩とは、一般的に云われる『ありがとう』という感謝ではありません。
「ありがとう」という言葉の本意は、『遇い難い/もうあいがたい』ですから、親鸞聖人の言葉で云えば、

真実の浄信、億劫にも獲がたし 
                   <教行信証 総序>  ―真宗聖典 p149―


ということです。
億劫とは、われわれがどんなに努力しようとも、決して適わない長さや遠さや大きさをあらわしています。

 これは「如来のこころは凡夫では計れない」ということで、つまり『自力無効』をさしているのでははないでしょうか、つまり如来(他力)回向です。
それに比べて、私たちが日頃使っている「ありがとう」という言葉はもっとスケールの小さい自力でなにかを掴みとろうとするような『ありがとう」を言ってはしないでしょうか。

 そういった自分のものさし(自力のこころ)に適うような感謝のアリガトウではなく、如来が我々を今まさに救い遂げようとしている願いは、私たちが思っているよりも遥かに深く、広大な海のようなものであるのだと親鸞聖人はおっしゃるのです。
 そうなると我々にとってはそれが煩わしくなる。身にあまる。如来の恩が時にはジャマになる。我々からみると「不都合な真実」になることもあるでしょう。
 
 念仏はそういった自分に釣り合うようなありがとうではなく、もともと如来の恩徳はいくら謝してもその大きさには適わないものだと『恩徳讃』で聖人はいわれるのです。
だから、骨を砕くほどに謝してもあまりあるものだといわれるのです。


                @Daisetsu

寒くなってきました

長崎もようやく本格的な冬の到来のようです。
全国的に見れば、九州ですから暖かいほうでしょう。
しかし、そうは言っても寒いものは寒い、ストーブが欠かせなくなってきました。
つい最近まで暖かい陽気でいつ寒くなるのかと心配なぐらいでしたが人間が心配するようなことではないのかもしれません。
昔はこの時期はコートを着ていたといいますし、この長崎でも真冬には軒先にツララがぶら下がっていたといいますから、今の気候とはずいぶん違うなと思います。日本最南端のスキー場は長崎からずっと南の宮崎県にありますからそれだけ九州といっても地域によって温度差があるのでしょう。
最近の気候を思うと、それだけ地球温暖化が進んでいるということなのでしょう。

南極や北極の氷が解けて深刻な事態になっているようですが、これから先まだまだ溶けるといわれています。
聞くところによると、海面が2メートル近く上昇するといわれ、これによってオランダやバングラデッシュ、インドのカルカッタなどは壊滅的なダメージを受けるという予測も出ています。それに伴って1億4000万人ほどの住民が住むところをなくすだろうという予測も出ています。
それだけの人間が大移動をするということを考えたら、恐ろしいことになるでしょう。
土地がなくなるということは、農地がさらに少なくなるということでしょうから、したがって作物がとれなくなり、水や食糧の問題はさらに深刻になるといわれています。
たとえば、肉を食べるために蓄養している牛や馬にしても、食べる人の量が増えれば、それに比例して、それだけの牧場と牧草がいりますが、現在の牧草地帯では補えないとも言われていますし、草も生えない台地が広がっているとききます。
牛や馬の出すゲップで大気が汚染されているという話も聞きます。

地球上の90%以上が海水、あとの10%に満たない数が飲料水といわれ、その水資源もヒマラヤやアルプスなどの雪解け水など、限られた地域の水資源に頼っていたものが、地球の温暖化によって加速度的に氷が消滅している事態は、深刻な問題なのでしょう。これからおそらくダム建設は増えるので
はないでしょうか。

 世界的にみて、CO2排出の増加は人口の増加に伴って、さらに拍車をかけるようです。現在の世界の人口が約65億人。それだけの人間が一日に7000万トン近くのCO2を排出しています。
この先、先進国では平均寿命が延び続け、そのほかの地域では子供が増える。30年から40年ほどで人類の1万世代分の人口増加が見込まれているそうですから、一人当たりの量を減らしたことで追いつく量ではありません。


しかし、逆にそのデータがうそだという人も言う人もいます。
「そうなれば、食料がなくなってしまい自然に人口は淘汰され、計算通りにはいかない」という見込みは確かにない話ではありません。
しかも、そのデータが本当かどうか、自分たちは生きていないので、確かめようがないというのです。
しかし、問題はそのことが本当であるとかないとか言うことが大事なのではなく、自分のこれまで行ってきたことを省みなくともいいという考えが問題にならない限り、なんの解決にはならないでしょう。

それにもまして、人は生まれれば、どんなものでも生きようとするものです。
それを簡単に死んでしまうなどと言ってしまっていいのでしょうか。
それは私たちの心のあり方にかかっている問題です。

わたしたちはそういうことで自分たちの現在の責任を放棄し、これまでの在り方を悪いとも思わない。
そういうことで果たしていいのでしょうか・・・・。
われわれの行い(因)の“果”を受け、その世界を生きるのは、確実に我々ではなく、我々の子孫です。
その人たちがわれわれを先祖として見るのですから、さらに責任は重大です。

環境問題から学ぶことは、これまであった人間の発展のあり方(因)が本当のニンゲンを目指してやってきたことの結果(果)であったのかということが問われているのではないでしょうか。

                    DAISETSU

リンク更新

長崎教区のHPがオープンしました。


永代経法要 終了

永代経法要が終わりました。
今回は、久しぶりに見る顔もちらほら見かけました。

昨日の逮夜で武宮勲師の法話は終わり、今日の日中の法話は住職でした。

1

武宮師の話は、ゆったりと穏やかな話口調で聞きやすいという評判だったようです。

 永代経法要とは、教えを永代にわたって相続する。つまり我々は後に続くもののために“道”を造りをする。
そのためにお寺に足を運ぶ。

 そのためには先祖から伝わってきた真実の教えに、まずわれわれが出遇うこと。
そして、その教えを後に続く者にも出遇っていってほしいというメッセージを残す。これが「道を造る」ということ。


 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。

            教行信証(化身土巻・末)=真宗聖典P401=



2

これで今年行う法要は定例を残して終わりました。
次の法要は、来年の1月の「報恩講」です。



午後からは、永代収骨廟の落慶をしました。






永代経法要スタート/初日

今日もいい天気。
しかし、朝晩はそれなりに冷えてきました。
朝、布団から出るのがだんだん辛くなって来る今日この頃・・・・。
とはいうものの11月だというのに暖房もいらないほどの陽気です。

初日のお経は『仏説 無量寿経』いわゆる「大経」でした。
このお経は上下巻あり、阿弥陀如来の菩薩時代の話や、その菩薩がたてた覚り(四十八願)などがよまれます。
これは真宗の”要”の教えがぎっしり詰まったお経です。

今回の法話は長崎教区第二組、真光寺(雪の浦)住職 武宮 勲師です。

 永代経法要の意味、そして「私たちが亡き人を縁として法要や葬儀などを行い、お経(=法)にあうということは、後に続く人たち迷いや苦しみを超えていってほしいというお釈迦さまや阿弥陀如来のメッセージを伝えるということです。この大切な”法”を先祖から受け継ぎ、そして私たちは後へと続く道をつくるんです」ととつとつと、ゆったりとお話されました。

明日の日中のお経は『仏説 観無量寿経』です。

<時間>
日中:10時より
逮夜:19時30分より

※日中参詣できない方は逮夜での参詣をお待ちしています。なお、逮夜にはお経はあがりませんのでご注意ください。(正信偈、和讃です)


『浄土三部経』が聞けるのは、この永代経法要だけです。
どなたでも気軽にご参詣ください。


講上がり



毎年恒例の『講上がり』の時期になりました。
ことしもやはり去年とおなじで、この時期にしては暖かい日でした。
毎年同じように写真を撮ったりするでしょうが、おそらく人以外は同じような風景なのでしょう。

萬行寺には各地区に「相続講」と呼ばれるグループが門徒によって構成されています。
その各地区の講の責任役員のことを講頭(こうがしら)と呼んでいます。その講頭と門徒が今日は集いました。
その相続講とよばれるグループは、それぞれが毎月の聞法会、年に一回の御文を読む会、報恩講などの寄り合いを行い、先祖代々念仏相続をしてきました。
「講」とは集まり。集いのことで、蓮如上人の時代に各地で始まった真宗の肝要としてはじまった伝統です。

 蓮如上人は、「寄り合い談合せよ」と門徒に教化されました。寄り合ってお互いが本尊を中心に仏法を語り合うことによって仏法の見聞を広め、それぞれが自覚的な真宗門徒として育つことを薦められました。
 また、地域ぐるみで葬儀や法要などの仏事を行ったり、各地域とのお寺の参り合いなどに発展し地域の活性化や交流も盛んに行われるようになりました。

蓮如上人の功績は「一文不知のともがら」とよばれた、差別や偏見や様々な悲しみ悩みを抱え底辺で苦悩する当時の門徒に「講」を公開することによって、仏法を慶ぶ仲間同士がお互いを教化しあい、悲喜共同しあうことによって、真宗を再興されたといわれています。

 現在は「寄り合い談合」という言葉はいい意味でとられませんが、本来はサロンの意味合いをもっていました。蓮如上人の時代にも、この相続講の中から強大な力を持った門徒衆たちが自由自治のコミューンをつくって一揆をおこしたり、さまざまな問題を興したことも歴史的にはあったと伝えられています。
 その沈静化のために、蓮如上人が自ら講中の門徒に行ないを慎むよう戒める厳しい内容の御文を書くほど力をもった講も中にはありました。
そうなってくると、話は別になって来ますが、逆に言えばそれほど相続講が真宗の歴史、親鸞聖人の教えをささえ続けてきたともいえるのではないでしょうか。


 今日は萬行寺の一年間の最後の決算日にあたり、この日はすべての相続講の人たちがお寺に集う日です。いわば宗祖親鸞聖人報恩講の「お待ち受け法座」のようなもので、これを皮切りに各地域での報恩講が行われていきます。
この日は元来、日並と呼ばれる地区の報恩講の日になっていましたが、本廟での報恩講との兼ね合いもあり、5・6年前から「講上がり」として勤まってきました。









今日の法話は、報恩講が勤まるにあたっての心得として、我々は得手に仏法を聞いていないだろうか、「自分のものさしで問うのではなく、自分のものさしを問う」ということを中心に話がありました。

<メモ>
自分の力で理解しようとするから解らなくなる。
素直に聞く、言われたことを言われたとおりに聞く。
聞法とは自我が破れること。=無明の闇を破する。
得手に仏法を聞くと、いくら努力したとしても、その努力の方法が間違ってしまうことがある。
蓮如上人は「一度の違いが一期の違い」になるといわれている。
仏法を聞いて「難しい」と思うのは、先入観、自分の勘違いした思いで仏法を聞いている。
自分のものさしで仏法を聞いている。これは素直に聞けていないということ。






台所では食事の準備が大あらわ。しかし慣れたもので、手際よく進められています。




<今日の料理>

煮付け
天ぷら・フライ(南瓜、茄子、芋、蒟蒻)
おむすび
卵焼(出汁巻き)
大根の酢の物
みそ汁
漬け物、たくあん



精進料理。
食べ過ぎ、カロリーの摂り過ぎは体に良くありません。
おまけにカロリーの高い食事は食器を洗う時に洗剤が多めにいるので、環境的にもよくありませんね。
運動量に見合ったものを適度な量、残さず食べることは環境にも体にもいいですね。
最近、ロハス(禅)が流行っているそうですが、精進料理はまさにその代表的なものでしょう。
みなさんもたまには精進はいかがですか?

いつもおいしい料理ありがとうございます。




                         DAISETU/大攝

更新! 報恩講シーズン到来!!

佐世保別院の報恩講も今日が最終日で雅楽入りでの法要です。
萬行寺から役僧ふたりが楽人として出仕をしましたので、今日の萬行寺の法務は一人。

朝からの法務を済ませ、毎月9日の長崎教務所の原爆定例へ。
今日の法話は私。


これから教区内の各寺でもあちらこちらで報恩講が勤まります。
教区内の報恩講日程をアップしました。
自分のお世話になっているお寺の報恩講だけではなく、各地の報恩講にもお互いが交流も含めて参り合いすると面白とおもいます。
いろいろと各寺によって勤め方や、雰囲気も違って勉強にもなるし、なかなかいいものですよ。

今後の報恩講参詣の参考にしてみてはいかがでしょうか。
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