この世に存在するものには必ず名前があります。
それは2種類あります。
有形(a-bhava)と無形(bhava)。
たとえば、有形のものはコップやお皿、パソコンなどの目で見て形がわかるもの。
無形のものは、こころ、愛、仏、悲しみ、喜び、などの見ようとしても見えないもの。見ようのないもの。
更に無形のものを細かく分類すると、
具体的な姿を持たないもの、空気、風、etc....
または具体的には目に見えない”こと、行為”など。仕事、修行etc....。
どんなものにも必ず名前があります。
皆、名前は必ず二つ以上持っています。
一つはそのものの存在意義を現す名前。→仏弟子、人間、生命、いきもの
もう一つは、そのものの社会的役割・関係性においての役割をあらわす名前。→母、父、先生、男、女、僧侶etc.....。
+個人名(俗名)
「地球」という名まえ一言でいっても、大地、海、山、雲など一言では言えない要素や表現がいっぱい詰まっています。
「阿弥陀仏」という名まえにも、一言では言いつくせない奥深さがあります。
子どもが生まれれば必ず名前をつけます。
生まれてくる前から「ああでもない、こうでもない」と親はそれなりに命名に悩みます。
どんな名前でも、「こういう人になってほしい」、または「あなたはこういう人である」という親の思いや願いや指名が込められているのです。
そして、その子が大きくなれば、必ず「ぼくの名前はどんな意味があるの?」と聞かれることもあることでしょう。
または、折にふれて自己紹介などの挨拶で、自分の名前の由来を話すこともあるでしょう。
名前負けや、立派すぎると言われたりすることもあれば、いい名前だね。と云われることもあったり、あまり好きではなかったりすることもあるでしょう。
名は体を表すというように、とても大事なものです。
否が応でも、その名前とは”業”のようなもので、一生付き合っていかなければならないものです。
そういったように、この世にあるものはすべて名の由来があり、理由があり、縁があります。
その”縁”によっていのちは存在し、そのことによって名前はつけられていくのです。
ですから、生まれる時に名前をつけることを
命名といいますから、やはりなまえとは突止めていくと究極的に残るのは、
いのちをあらわすものでしかないということです。
この世に存在するものに必ず名前があるということは、この世に生きている、もしくはさまざまな生命として存在していたことを現しています。
これは、娑婆の縁が尽きてしまってからでは、その由来も縁もその願いも聞きひらくことも出来なければ、その願いに生ていくことも、仏弟子になると誓うことも出来ません。
葬式やお通夜などで、お坊さんが法名を授けるのは、生前に仏縁がなく、法名をもらうことが出来なかったひとが、便宜上ですが仏弟子になってもらうという形式的なものでしかなく、亡くなったからあげるというものでもありません。
また、亡くなった後にあの世で迷ったり、地獄に堕ちたりしないように、とか法名が無いと迷うとか
冥途に行くための名前や、死後に付ける名前ではありません。それから、字数が多い方がいいということもありません。
こういったことは仏教を世俗的な勘違いとして受け取っている方のようです。
ですから、真宗門徒ならば、
帰敬式をしっかり受け、男性ならば『法名 釈◯◯』、女性ならば『法名 釈尼◯◯』と法名をいただくことが、まず真宗門徒としての大切な出発点となります。
「法名」は、仏さまの言葉から二文字だけいただきます。
その名前に込められた仏の願いに目覚め、生きることが、すなわち「仏弟子」です。
その「仏弟子」というのも無形ですが、わたしたちが志をたてる(発菩提心)ことよって、「これが仏弟子です」と具体的に、具現的に指し示すことが出来るのです。
そしてわたしたちがここに存在する意味(なぜ生まれ、そして死んでいかなければならないのか)が明らかになっていくのです。
帰敬式は、これまであった在り方、現実に流され生きるしか術を知らなかった自分から、新たに生まれ変わり、仏の弟子として人生を再スタートすると誓う式です。
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