28日 定例法座

天気もよく暑い日が続きます。
カラッとした夏らしい日差しがさしています。
今年は蝉の多い年らしく、木には見たこともないほど沢山の蝉がとまって久々に夏らしい賑さです。

台風が去ってからずっと、雨が降っていません。夕立もないのでそろそろ雨もほしいものです。
お寺の近くでは、夏休みの夕方になると、昔からこの地域に伝わる『浮立/ふりゅう』とよばれる雨乞いの踊りの笛太鼓が賑やかに鳴りだします。子どもたちが毎年、おばあさんやおじいさんに浮立を習いに来ています。

早いもので今日は28日ですから、あと数日で7月も終わりです。まもなくお盆がやって来ます。
今日、28日の十時から親鸞聖人のご命日、定例法座でした。
この日は25日より参詣が多く、賑やかでした。

今日も、前回に引き続き「正信偈」の文 如来正意興出世 唯説弥陀本願海                            五濁悪世郡生海 往信如来如実言でした。




萬行寺にはクーラーがないのですが、日本家屋独特の自然の風と扇風機の風にあたりながら、みなさん熱心に聞いていました。








25日は和讃、28日は正信偈と話は続いていますが、続けてきかないとわからない話はありません。どうぞ、どなたもお参りください。

毎月25日は蓮如上人ご命日です。

ずいぶん暑くなってきました。
九州は梅雨明けしたようで、風がなくわりあいカラッとした天気が続いています。
今日は蓮如上人のご命日(定例法座)でした。
本堂が工事中のため、7月、8月の行事は庫裏(くり)で行います。

毎月
25日(蓮如上人ご命日) 「和讃」=若院・役僧
28日(親鸞聖人ご命日) 「正信偈」=住職

のお話があります。

     


きょうは萬行寺役僧、三沢教悟師。

浄土和讃の3首目。

解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたもう
平等覚に帰命せよ



のお話でした。
解脱とはなにか、なぜ光の輪と聖人は書かれているのかといった解説をまじえ、お話がありました。







法話の後、本尊を公開しました。
この本尊についてのお話や三十二相八十随行好についての簡単な説明が住職からありました。

普段はこんなに間近で見ることがない本尊、後ろ姿や足の形、顔の表情、後光などの姿を観察しました。

この本尊は300年近く経っているため木が痩せてしまい、ホゾがあわなくなるなどの傷みが出てきたため、28日の定例法座がすんだあと、しばらく修復に出されます。












京都

「通信員」の会議のために京都へ。



やはりいつ観てもデカイ御影堂門。



大屋根は吹き上がっていた。



大きなクギで瓦を固定する。このクギ、9寸以上はあるな。


答えは、7キロ。

あしたから法要です

萬行寺は各月に法要を行っています。
明日からは、「作上がり法要」です。






これは、「作物が出来上がったので、時間も出来たしようやくお寺に行けるようになった」だからお寺に行こう。という昔の習慣から来ているようです。
いまは農地改革で農家といわれる家庭が減り、「作上がり」という言葉をきいてもピンと来ませんが、昔は農家が多かったことと、楽しみといってもどれほどあったかは判りませんが、昔は両彼岸とともに盛んだったようです。


               7月17  日中 am10時
                     逮夜 pm7時半
                
                18日  日中 am10時
           
           お話:住職 
                『正信偈のおはなし』

つれづれ日誌

嵐が去った後の空は、色が一段と濃く、しかも普段より澄んでいうように見えます。
今日は台風一過で久しぶりのギラつくような太陽が目をさすような一日でした。

カメラ『つれづれ日誌』というくらいだから、たまには「それらしいことも書かないとな」と思いたち、カメラを抱えてバシャバシャ撮ってきました。(これはそのほんの一部です)

今日は海辺でペーロンが行われました。
萬行寺の役僧さんも参加しています。
このペーロンは、長崎独特のものらしく、中国や沖縄にも同じようなボートレースがありますが、このペーロンは長崎で独特の変化をしたもののようです。

夏になるといつも海からペーロンの鐘の音が風に乗って聞こえてきます。




この鐘は「チャンコンチャンコン」と遠くから聞くとラグタイムがあり、他の船の鐘と相まってそう聞こえます。
憶えている限りでは鐘の他に銅鑼や太鼓を乗せていて、もっと船も大きかったような気がします。それで昔は「ジャ〜ンジャ〜ン、カンカン、どどんっどどんっ」ともっといろんな音が賑やかに聞こえていましたが、最近では船の性能もあがり、軽量化のためなどでしょうか鐘だけになったようです。




いよいよ最終レース。おそらくこの時が一番緊張するんだろうな。




人でいっぱいです。
















     いや〜、いい天気!
     というより先に暑い!




お疲れさん。


明日は

凄い嵐だそうです。
河川の氾濫や家の増水などが心配なくらい雨が降るようです。
あしたは法要に向けての仏具の『お磨き』でしたが、あしたは取りやめになりました。

迷いを縁とする

     迷いを縁とする
                                   亀井 攝

 「便利になる」ということは、思うことが適うということです。仏教では、思ったことが適う世界を「天」といいます。思い上がることを「有頂天」ともいいますが、その一番高いところにある世界は「他化自在天」です。親鸞聖人が書かれた『現世利益和讃』には
南無阿弥陀仏をとなうれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまえにて
まもらんとこそちかいしか    真宗聖典 四八八頁
 とあります。「他化」とは、他の人の幸福を自分のものにするということです。この『他化天の大魔王』とは、そういう世界に住んでいる欲深い者のことで、私たちの迷いの相です。
 
 現代は、いかに楽に、そして、より沢山の福を得ることが文明人であり。そして、そのことが適う世界を善としてきました。 そういう風にしてどんどん欲望が拡大されていく。そうなるととどまることはありません。一つ欲望が満たされても、また新しい欲望がでてくる。それでも満足できない。 そうして、なんの不自由もなく、思いのとおりにいくと、今度は逆に思った通りにならないことが許せなくなってきます。 子どもの頃から思い通りに生きている。それが当たり前だから、我慢などしなくもいい。そういった傲慢さと、人間的未熟な現代人。いざ窮地に追い込まれれば、他人も信じない。唯一の頼りの自分自身も思い通りにならず、遂には破綻してしまう。そうなれば、体は生きたいと言っても、最後には『死』しか選択肢がなくなっていく。これが現代の自力の行き尽くところです。

 新しい世代は、子どもの頃から成績という数字で評価され、学校も仕事も世間の評価で選び選ばれ生きています。そういう中で成長すれば、他人の目が気になって仕方がない。そういった他人の評価に適わない自分になってしまうことをとことん畏れます。そうすると、「自分はダメだ」といつも自己嫌悪に陥って、自分の価値を認めてくれる者、同じ価値観の者としか付き合えなくなる。そうして社会の中で役に立つものだけが評価され、そして、役に立たないものは劣っていると思う。そんな卑屈な生き方になっていきます。
 「他化自在天」という思う通りになる世界をだけを追求しいく社会は、自分の都合、価値観、物差しにかなうものだけしか信じない。まさに迷いで迷いを拭うように、ますます本当でないことを本当だと信じて疑わない世界が拡がっていく。こうして煩悩が燃え盛るようになると、自分の思いを出ることは考ええもつかなくなっていきます。そういう意味では、やはり現代人は皆、救いを求めている。
 そういうわたしたちに釋尊は「中道(ちゅうどう)」という生き方を示されます。この中道という道を
親鸞聖人は、『讃阿弥陀仏偈和讃』に曇鸞大師の言葉を引用し、
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまう
 平等覚に帰命せよ   『真宗聖典』 四七九頁
 と表現されています。この「有無をはなる」というのは、私たちが持っている「善悪」といった自分を中心とする分別心から解放されていく道です。この分別心というのは、生は善いけれど死は悪い、健康や若さは善、病や老いは悪、という思いのことです。これらの執着心を「捨てる」のではなく、「離れよ」といわれるのです。
釈尊は「自我を離れようとする道」があることに気づいてほしいといわれ、親鸞聖人はさらに、その道は凡夫だからこそ等しく往ける道であるといわれているのです。
 親鸞聖人の歩まれた道は、自我の思いを離れられないということを徹底的に信知していくことでした。この離れられないということを信知するとは、自分は「信心を獲得できるもの」と思っている「自力のこころ」のあさましさに気付くということです。これが親鸞聖人のいわれる「信」です。そして、親鸞聖人は教行信証の総序で
  専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。
 と言われます。ここで聖人は「信を手に入れよ」とは決して言っていません。わたしたちはともすれば、信心は手にいれるものだと思い込んでしまいます。信じるというのは、「わたしが信じる」。もっといえば、信じるとか、信じないという分別で信心を理解しようとする。このこころもまた「自力のこころ」です。わたしたちは仏に成れる種が自分にあると思いあがっている「他化天の大魔王」なのです。
 教行信証の後序にある「ただこの信を崇めよ」とは、「無条件に頭が下がる」ということです。真宗の救いとは、自分の思いを離れられない迷いの深さを信知するということです。自分の迷いの懐、深淵に下りていく。 そして、そのことに気づけない自分は善人になれると思っている悪人であることに目覚め続けていくわけです。

 親鸞聖人はさらに「他化天の大魔王」を縁として、真実に出逢うよう薦められています。
これは逆境・苦境を縁とするからこそ、真実に出遇えるのだといわれるのです。
そうすることによって、他化天の大魔王もそのこころに目覚め、信心の行者をまもるのだといわれています。その煩悩の深さを信知することで自らの迷いの闇が破られていくのです。
 親鸞聖人は自身の経験を通し、繰り返しいわれています。
わたしが如来の恩徳の深さを知るためには、この道しかなかったのです。そしてその道を行ったからこそ、往きやすき近道だったということが初めてわかったのです、と。

名前について/法名の意味

この世に存在するものには必ず名前があります。

それは2種類あります。

有形(a-bhava)と無形(bhava)。

たとえば、有形のものはコップやお皿、パソコンなどの目で見て形がわかるもの。
無形のものは、こころ、愛、仏、悲しみ、喜び、などの見ようとしても見えないもの。見ようのないもの。

更に無形のものを細かく分類すると、

具体的な姿を持たないもの、空気、風、etc....
または具体的には目に見えない”こと、行為”など。仕事、修行etc....。

どんなものにも必ず名前があります。

皆、名前は必ず二つ以上持っています。
一つはそのものの存在意義を現す名前。→仏弟子、人間、生命、いきもの
もう一つは、そのものの社会的役割・関係性においての役割をあらわす名前。→母、父、先生、男、女、僧侶etc.....。
                                  +個人名(俗名)


「地球」という名まえ一言でいっても、大地、海、山、雲など一言では言えない要素や表現がいっぱい詰まっています。
「阿弥陀仏」という名まえにも、一言では言いつくせない奥深さがあります。







子どもが生まれれば必ず名前をつけます。
生まれてくる前から「ああでもない、こうでもない」と親はそれなりに命名に悩みます。
どんな名前でも、「こういう人になってほしい」、または「あなたはこういう人である」という親の思いや願いや指名が込められているのです。
そして、その子が大きくなれば、必ず「ぼくの名前はどんな意味があるの?」と聞かれることもあることでしょう。
または、折にふれて自己紹介などの挨拶で、自分の名前の由来を話すこともあるでしょう。

名前負けや、立派すぎると言われたりすることもあれば、いい名前だね。と云われることもあったり、あまり好きではなかったりすることもあるでしょう。
名は体を表すというように、とても大事なものです。
否が応でも、その名前とは”業”のようなもので、一生付き合っていかなければならないものです。

そういったように、この世にあるものはすべて名の由来があり、理由があり、縁があります。
その”縁”によっていのちは存在し、そのことによって名前はつけられていくのです。
ですから、生まれる時に名前をつけることを命名といいますから、やはりなまえとは突止めていくと究極的に残るのは、いのちをあらわすものでしかないということです。



この世に存在するものに必ず名前があるということは、この世に生きている、もしくはさまざまな生命として存在していたことを現しています。
これは、娑婆の縁が尽きてしまってからでは、その由来も縁もその願いも聞きひらくことも出来なければ、その願いに生ていくことも、仏弟子になると誓うことも出来ません。

 葬式やお通夜などで、お坊さんが法名を授けるのは、生前に仏縁がなく、法名をもらうことが出来なかったひとが、便宜上ですが仏弟子になってもらうという形式的なものでしかなく、亡くなったからあげるというものでもありません。
また、亡くなった後にあの世で迷ったり、地獄に堕ちたりしないように、とか法名が無いと迷うとか冥途に行くための名前や、死後に付ける名前ではありません。それから、字数が多い方がいいということもありません。
こういったことは仏教を世俗的な勘違いとして受け取っている方のようです。

ですから、真宗門徒ならば、帰敬式をしっかり受け、男性ならば『法名 釈◯◯』、女性ならば『法名 釈尼◯◯』と法名をいただくことが、まず真宗門徒としての大切な出発点となります。

「法名」は、仏さまの言葉から二文字だけいただきます。
その名前に込められた仏の願いに目覚め、生きることが、すなわち「仏弟子」です。
その「仏弟子」というのも無形ですが、わたしたちが志をたてる(発菩提心)ことよって、「これが仏弟子です」と具体的に、具現的に指し示すことが出来るのです。
そしてわたしたちがここに存在する意味(なぜ生まれ、そして死んでいかなければならないのか)が明らかになっていくのです。

帰敬式は、これまであった在り方、現実に流され生きるしか術を知らなかった自分から、新たに生まれ変わり、仏の弟子として人生を再スタートすると誓う式です。

帰敬式のご案内

7月の更新しました。

前回の日誌は随分とアクセスがあったようです。
実験的に仏具特集をしてみましたが、いかがだったでしょうか。

はやいものでもう7月です。
少しずつ暑くなってきました。
毎月同じことを書いているようですが、月初めにはやはりそう思ってしまいます。

トップの写真は気が早いようですが、一応夏をさきどりのつもりです。

今年の夏は暑いと予想されているようです。
個人的には、暑いよりも寒い方が苦手なので、多少の暑さは我慢が出来るのですが、なにせ勉強部屋が屋根裏にあって窓が小さい上に屋根の熱が直にくるので、以外に夏は大変です。
去年、なにを思ったか、大型の扇風機、業務用の工場扇とやらを買ってきてブンブンまわしていましたが、あまりに風が強すぎて使えませんでした。ガックシ悲しい
しかし、ことしはコントローラーを買ったので少しは快適に過ごせるのではないかと期待しています。

ところで、萬行寺のある町は時津町と言いますが、水が慢性的に足りない町なので、今年も例外なく水不足に悩まされそうです。
四国ではもっと深刻なようですね。
とりあえず、長崎は順調に降ってはいますが、夏の間の雨量がどれだけあるのかが心配です。
去年は近年にない大嵐。超強力な風の吹き荒れた台風がやってきた後には、一ヶ月以上も雨が降らない日が続きました。
その影響で塩害がひどく、門徒さんのミカン畑や山などで被害が相次ぎました。
今年はどうなるのでしょうか。
よければ、各地の様子なども伝えていただければなあとおもいます。


最近、環境破壊が話題になってますが、これはやはり人間の文明が如何にして楽をするかということに終始してしまった結果ではないかと思います。
そもそも機械文明(オートメーション)というものは、楽になる分労働力の向上になる。もしくは楽になった分これまで出来なかったことができるようになる目的で発展してきたはずなのに、実際はそうなっていないなと感じます。

環境の問題でいえば、今のような冷房や暖房器具がない時代は我慢を出来るように少しずつその環境に合うように体を慣らしていった。
しかし、今は逆で環境を人間の住みやすいように変えてしまったように思います。
夏は部屋を涼しく、冬は暖かく半袖で過ごす。
まさにいかに楽をして快適さを得ることが文明人であるかのように思っています。
自分もそうなのですから、何も言えないのですが、やはりそういったことの積み重ねが今の状況をつくっているように思います。

無量寿経巻下に「仏の遊履したまうところの国邑丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災れい起こらず。(聖典p789」[訳]仏の歩み行かれるところは国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらない。
とありますが、やはりこの災害というのは、人間が自然を破壊したから興ったのです。
なにも自然が人間にいたずらしているのではない。
むしろ人間が自然をキヅつけているから、自業自得の道理として、災害がおこる。
ということではないかと思うのです。
月や太陽や雨も初めから明るく輝き、雨も自然にとってはよい時に降っている。
しかし、人間を中心に考えると自分の思うと通りにいかないと都合が悪いということでしょう。
だから、自然が人間に猛威をふるうように感じる。それだけなのではないかと思います。

この星の住人として共生していくためには、守らなければならないことがあると自然は教えてくれているのです。まさに仏さまのようです。

これを如来と衆生の関係で言えば、仏智を疑っている。つまり、仏はいつでもそばにいるのにそれを信頼しない。または信頼出来ない衆生の在り方を一々語らなくても、自ずからがやることなすことが疑っているという事実をあきらかに露呈しているのです。

そういう仏を謗っている娑婆の只中にまでわざわざ仏は現れ、その謗らなければ生きていけない衆生と共に苦しんだり、悲しんだりする。
つまり仏が遊履することで。その人間の真実に対しての在り方が問われてくる。

環境の問題一つにしても、この自然と人間の関係でいけば、自分たちの我執や欲望むき出しの在り方そのものが問われているのに、やはり自分たちの現実にはあわないとおもってしまう。

だからといって、「明日から車に乗るのやよう」と言うわけにはいかない。
と言えば言うほどなんとも言えなくなってきます。トホホ・・・・・。ショック

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