永代経法要中です!

昨日から『永代経法要』がつとまっています。
永代経は、『浄土三部経』が読授される法要です。
昨日の日中は無量寿経、今日の日中は観無量寿経がつとまりました。明日は阿弥陀経です。
昨日の日中の法話は住職。夜から最終日まで岡本英夫先生です。


ps:住職はただいまパキスタン旅行レポートを執筆中。しばらくお待ちください。



「いただきます」ということば

聞き耳を立てる
<食前の言葉>        <食後の言葉>
みひかりのもと        われいま幸いに
われいま幸いに        この浄き食を終わりて
この浄き食を受く       こころゆたかに
いただきます         ちから身にみつ
               ごちそうさまでした


最近、『食育』という言葉を耳にしました。
これを聞いて、とても大事だなぁ、とおもいました。
「食べる」という行為は、いのちをつなぐということでもあり、いのちを食べるということでもあると思います。

読書宗教には必ず、厳しく戒められる決まり(戒律)があります。
その中の一つに、『不殺生』というものがあります。
これは、完全に守りきることはできないので、せめて半日だけ何も食べないとか、せめて今日だけは肉や魚だけでも食べないようにしようとか、様々な工夫によって、いのちの大事さを教える儀式として伝統されてきています。
かつての日本の律令国家の時代には、八戒斎(はっかいさい)という、なるべく殺生をしないという法律までありました。
例えば、八戒斎の時期には死刑執行は行わない、戦争はしない、時間を過ぎたら食事をしない、などです。

料理も精進料理。なるべく質素にすることを心がけ、必要以上にカロリー摂取しない・食べ過ぎないように、などいろいろ工夫されています。
それは単に健康に気をつけてというだけではなく、食卓に並んだいのちに対しての敬意の表れではないでしょうか。


食べるという行為そのものが、「いのちを殺さなければ生きていけない」という当たり前の事実を突きつけられ、それをたんに知識としてだけではなく、人間の悲しみとして受けとめていく。
このことが大事ではないでしょうか。
そのためにはいのちにたいして思いを巡らすこころの余裕と、それをつくりだす心の豊かさがなければいけないでしょう。
飽食の現代はこころの貧しさが広がっているといわれています。
お金を出せば、好きな時間に好きなものを好きなだけ食べられると安易に考える。
あるいは食べ残したり、暴食することを、なんとも思わなくなる。
(ん〜、自分的にも苦しいね〜ショック

これは、いのちという本質を見失い、自分自身をも苦しめていくことになるのでしょう。

                                 大攝

汝正念にして直ちに来れ

見る仏足石の台座が出来上がりました。
三日間かけて左官の角さんに作っていただきました。
台座の高さは角さんのアイデアで折足礼(せっそくれい)ができる高さにしました。




この足あとは左足のみですが、方向は本堂の阿弥陀如来(西方)に向かっています。
これは善導大師の「二河白道の譬え」に出てくる西からの声(阿弥陀の召喚の声)に呼ばれ、その声のする西へ向かって白道を歩いていく釈迦の姿を表しています。






読書夜は「教行信証拝読の会」でした。
今日は真仏土の巻のはじめに戻り、有為(うい)と無為(むい)のことについて学習しました。

仏教は無為を説きますが、私たちはいつも有為を求めてしまいます。
それは努力してエラい人になりたがったり、なにかと目に見える成果を求めてしまいます。
しかし、法然上人が云われたことは「愚者になりて往生す」といわれたのですから、学べば学ぶほど自身が愚かなものであるという身の事実を知らされるということです。
努力しても人間には「死」がある。
愛すれば愛するほど別れが辛くなり、更に苦しみは増していく。
諸行無常である。
しかし、愛せずにはいられない。
「愛し尽くせない」ということにおいて愛をいただく、そういうことです。

人間というものは、煩悩が欠け目なく備わっているから、どんなに努力しても仏には成れない。
平和の為に戦争をしたり、魚や野菜のいのちをとって生きている。
そんなものがどんな努力をしても仏には成れない。

「仏性」は我々にあるのではなく、仏の慈悲が仏性。
自分たちのなかに仏に成れる種があると思うから迷いが生じる。
これは「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」(信の巻p210)ということになる。
現世で仏に成れると自らを誇って疑わないもののこと。
仏教は人間の理想から出発するのではなく、人間の現実から出発する。
これが「素直」ということ。

うひ(有為)のおくやまけふこえて、あさきゆめみじえひもせず。
         (人は本当でないことを本当であると信じてしまう。)




という話がありました。
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