2007.04.22 Sunday
日曜学校
きょうは、雨でした。
ざんざん降りです。
どうやら恵みの雨です。
そんななか、きょうは13人の子供たちがきました。
そのあと、みんなでお茶会をしました。
(・e・)
萬行寺日曜学校は、少なくとも100年以上は続いている歴史があるようです。先々代の坊守が萬行寺にきた時にはすでに子供たちが集まって正信偈をあげていたそうです。
その頃すでにいつ誰が始めたのか知らなかったといいますから、ひょっとしたら明治時代ぐらいから続いているのかもしれません。そうなると100年以上になります。
これは残念ながら、今となっては知る術もありません。
昔は萬行寺から遠く離れた日並や長崎市内からも何キロも歩いてきていたようです。今は交通の便が良くなり、以前よりまっすぐで歩きやすい路が出来たのですが、昔より近くなりましたが子供たちを取り巻く状況も変わったことなどもあって、お寺に足を運ぶ人の数は減っているようです。これも過疎化と高齢化の影響ではないでしょうか。
ここからは想像なのですが、当時は学校というのもないですし、子供を通わせるのにも、お金もなく、家の田植えや畑仕事などに子供たちも貴重な労働力として参加していたような時代だったようですから、そのことを思えば、日曜学校というのは子供たちの唯一の学びの場だったのではないでしょうか。
今のように塾や学校がないのですから、したがって受験勉強もする必要もなかったのでしょう。
更に昔に遡れば、信長の時代に日本にやってきた宣教師が、日本人の識字率をみて驚いたようですが、その当時、蓮如上人の御文がさかんに読まれていたことから、そういった識字率になったようです日本人の文化レベルの高さはそこからきているのかもしれません。
そうして考えてみると、「人間は考える葦である。」というように、考えるから人間は現在の人間にまで辿り着くことができたのです。
しかし、勉強することは、そういった意味でとても大事ですが、仏の教えは、そういった世間を生き抜く知恵を教えるのではなく、もっと人生にとって根本的なこと、自己とはなにか、”ヒト”として生きること、生まれた意味や、いのちの尊さがわかる人になってほしいという仏の願いがあります。
大切なことがわかっていないなら、いくら勉強しても、原子爆弾をつくったリ、独裁者になってしまうこともありえますし、人の心の痛みがわからない人間は自分をも苦しめていくことになっていきます。
そういう意味で、人間を考える教育の場はこれからも大切に守っていかなければいけないのではないかと思います。
ーこどもの三帰依文ー
わたくしたちは ほとけのこどもになります。
わたくしたちは ただしいおしえをききます。
わたくしたちは みんななかよくいたします。
ざんざん降りです。
どうやら恵みの雨です。
そんななか、きょうは13人の子供たちがきました。
そのあと、みんなでお茶会をしました。
(・e・)
萬行寺日曜学校は、少なくとも100年以上は続いている歴史があるようです。先々代の坊守が萬行寺にきた時にはすでに子供たちが集まって正信偈をあげていたそうです。
その頃すでにいつ誰が始めたのか知らなかったといいますから、ひょっとしたら明治時代ぐらいから続いているのかもしれません。そうなると100年以上になります。
これは残念ながら、今となっては知る術もありません。
昔は萬行寺から遠く離れた日並や長崎市内からも何キロも歩いてきていたようです。今は交通の便が良くなり、以前よりまっすぐで歩きやすい路が出来たのですが、昔より近くなりましたが子供たちを取り巻く状況も変わったことなどもあって、お寺に足を運ぶ人の数は減っているようです。これも過疎化と高齢化の影響ではないでしょうか。
ここからは想像なのですが、当時は学校というのもないですし、子供を通わせるのにも、お金もなく、家の田植えや畑仕事などに子供たちも貴重な労働力として参加していたような時代だったようですから、そのことを思えば、日曜学校というのは子供たちの唯一の学びの場だったのではないでしょうか。
今のように塾や学校がないのですから、したがって受験勉強もする必要もなかったのでしょう。
更に昔に遡れば、信長の時代に日本にやってきた宣教師が、日本人の識字率をみて驚いたようですが、その当時、蓮如上人の御文がさかんに読まれていたことから、そういった識字率になったようです日本人の文化レベルの高さはそこからきているのかもしれません。
そうして考えてみると、「人間は考える葦である。」というように、考えるから人間は現在の人間にまで辿り着くことができたのです。
しかし、勉強することは、そういった意味でとても大事ですが、仏の教えは、そういった世間を生き抜く知恵を教えるのではなく、もっと人生にとって根本的なこと、自己とはなにか、”ヒト”として生きること、生まれた意味や、いのちの尊さがわかる人になってほしいという仏の願いがあります。
大切なことがわかっていないなら、いくら勉強しても、原子爆弾をつくったリ、独裁者になってしまうこともありえますし、人の心の痛みがわからない人間は自分をも苦しめていくことになっていきます。
そういう意味で、人間を考える教育の場はこれからも大切に守っていかなければいけないのではないかと思います。
ーこどもの三帰依文ー
わたくしたちは ほとけのこどもになります。
わたくしたちは ただしいおしえをききます。
わたくしたちは みんななかよくいたします。