「徳風編集室」より

3月1日に第5号の寺報「徳風」がでます。
今回から新しい編集員で気分も一新。試みも新たに、フルカラーで見やすくし、紙も今までよりも良いものを使うことにしました。

門徒の皆さんの手元に届くのを楽しみにしています。
ご期待ください。

2月15日は涅槃会(ねはんえ)

今日は『涅槃会(ねはんえ)』です。
涅槃会とは、釈尊の命日です。
萬行寺では、成道会(じょうどうえ)同様、特別になにもしませんが、大事な日であることは確かでしょう。
「涅槃」は、梵語のnirvana(ニルバーナ)の音写で、煩悩が尽きる。迷いの世界を離れる。生死を超える。ということを意味しています。
仏教では、”死”を悩みや苦しみの多い娑婆世界からの解放ととらえてきました。

釈尊は、さとりの意味を説く長旅の途中で自らの死期を迎えることになります。
その際に弟子たちを集め、自らの死に往く姿、あるがままの人間の姿を見せることによって、弟子たちへの最後の説法とされたと言われています。
現在の葬儀はその時の姿を真似ていると言われ、釈尊の身業説法(しんごうせっぽう/身をもって教える説法)の徳に少しでも肖り、真実に目覚めた釈尊に近づきたいという仏弟子たちの思いが込められています。

そこで葬儀に携わって思うのは「臨終」ということです。
これは「終わりにのぞむ」と読みますが、常に”今”を指している言葉です。
しかし、わたしたちはその「必死」である事実、必ず死ぬ身であるという実感が持てないまま、生きることに慣れ、現実から逃げています。

私たちの事実は「死にゆく身」を引き受けられないことが、「人生における生死の根本的問題」なのにも関わらず、生きることだけを必死に追い求めるあまり、一方にある「死」を嫌い、絶望的で、全ての終わりのように死を考えてしまいます。そのため全てを放棄してしまわざるをえない人が現代においては、多いように思います。
「涅槃」の教えとは、そういった考え自体が迷いであることを教えられ、そういった一切の迷信から解放され、自由な主体として、生死を超えていく覚りの道があることを説いています。


<釈尊の最後の言葉>
弟子 「先生が亡くなられたら、わたしたちは 何を拠り所として生きていったらいいの
    でしょうか」
釈尊 「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法を
    たよりとして他のものをたよりとせず生きよ」

原爆定例会、学習会。

きょうは「靖国問題を学ぶ住職・組門徒合同学習会」にいきました。場所は長崎教務所です。
講師は熊本教区、山田寺住職、湯浅成幸師。

-前半-

終始して、真宗門徒の信心の問題を中心に靖国問題をみるという話でした。
<青はテキスト引用>
わたしたちは真宗の門徒の家が宗教という因習的な姿になっているように理解していたのです。ところが靖国問題が出てきたことによって、真宗門徒だと思っていたものの化けの皮が剥がれて正体が見えた。真宗門徒だと思っていたけれど、実際は全部神道だったのです。念仏を称えているような顔だけど、意識は神道だったんだ。靖国問題によって門徒の実態が見えたのです。ところがそういう問題が教化の問題として具体的に消化されなかったのです。 そこではじめて本当に我々は真宗門徒なのか、ということが靖国問題などに問われてくる。

靖国問題は、政治的問題・思想/歴史観・宗教観と多様にあるが、大事なのは、真宗門徒にとって信心とは何なのかということを問題にしない限り話にならない。われわれは親鸞聖人のいわれた仏道から靖国を見ていかなければいけない。そういう意味で念仏が我々の中に血肉化していない。そういう反省と、真宗の本来化へのうごきから同朋運動が始まっていく。しかし実際は、靖国問題は一つの社会問題として出てきましたが、それが一か寺一か寺の寺の門徒の心に入らなかった。社会問題というだけで受け止められて、門徒の意識が実際には真宗という名の神道に過ぎなかったんだ、そういうところに気がつかなかったのです。
報恩講はそういった迷っている自身をあきらかにするもの、それが信心。信心を語れなかったことを語る場。
靖国問題は結局、信仰の問題として土俵に上がらなかった。だから靖国問題は宗門本来化への糸口にならなかったのではないでしょうか。
同和問題は、一言でいうと、真宗大谷派に親鸞聖人はおいでになるかどうかどうかという問いかけです。



-後半は主に”罪”について、王法と仏法とのちがいについてでした。

罪には表面化する罪(身業・口業)と表面化しない罪(意業)がある。
表面化しない罪(意業)は口に出さなければ、世間では罪に問われることはない。しかし親鸞聖人が阿弥陀如来の本願に逢って見えてきた罪悪観は、凡夫、人間に生まれたことの意味ががわからないという世間では問われようのない罪悪観だった。人々の苦しみや悩みが親鸞聖人にとって生活の真っ只中に浄土の門を開いていく入り口となっていった。
親鸞には紫の衣も金襴の袈裟もなかった。文学博士の称号も天にそびえる殿堂もなかった。親鸞にあったのは、貧困と流罪と念仏と愚禿だけであった。この問いかけにどこまで答えられるでしょうか。

◯真宗にとって”寺”とは念仏道場である。


-感想-
この日の帰りに、駅前の本屋で竹中智秀先生の本を見つけたました。帯には「阿弥陀如来の国か、天皇の国か」と書かれてありました。
これこそが今日問題になった「信心の問題」ではないかとおもいます。
阿弥陀如来の国に生まれたいと念仏しながら、実際は政治がつくりあげた現人神を崇めている。浄土に生まれることを願う念仏者が、阿弥陀如来の国ではなく、国家の「柱」として「礎」になり、犠牲(=いけにえ)になるそんな時代の足音が近づいているように思います。
戦争は戦争の顔をしてやってこない。そうおもいます。
しかし、かつて大谷派も舵取りを間違い、大切な念仏者を戦地に送ってしまった時代があります。
だからこそ、靖国問題は宗門にとって欠かすことにできないピンチをチャンスに変える私たち一人一人にとっての大事な信心回復の運動なのだと改めて感じました。
                              大攝

いよいよ梵鐘来たる!

今日は雪。
今年に入ってから一番の寒さでした。
そんな寒風吹きすさぶ中、昨日・今日と新しい梵鐘の取り付けをしていただきました。
昨日は古い梵鐘を取り外し、新しい梵鐘をかけ変えるための作業をしました。
今日は滋賀県から職人さんが鐘をトラックに載せてやってきました。あいにくの雪で、高速道路が通行止めになり、到着が少し遅れましたが、それ以外は何もなく無事に到着。

そのあと職人さんの手際のいい作業でスムーズに取り付けられました。
さすがに慣れたものです。

これまで使っていた鐘は、その以前のものが戦争に供出されたため、戦後、物資のないなかで造られました。大切に扱えば400年もつのですが、14年ほど前の大台風で鐘楼堂が倒壊した時に下敷きになったため、亀裂が入り、鳴らなくなっていました。
それに加え、毎年行ってきた除夜の鐘で、最低一分半ぐらいの間隔を空けてたたかなければいけないことと、力一杯つかないことを守らない人がいたため、酷使と金属疲労でさらにキズが悪化し、みるみる響きが悪くなってしまったようです。

以前は長与駅から牛に轢かれて萬行寺にやってきた古い鐘は、いよいよ役目を終え、生まれ故郷に帰っていきました。


新しい鐘は、文字やレリーフの彫りが深く、堂々としたものです。
ちょっと突くだけでとてもよく響き、余韻も長く鳴り響いていました。

大浦社寺建築社の職人さんと小堀仏具さんは昨日から泊まりがけです。
おつかれさまでした。


※今年から三年間は慣らし期間のため、除夜の鐘はお休みします。

                            大攝

「梵鐘がやって来る」

3月1日
 12月6日の火入れ式から約3ヶ月、3月2日にいよいよ搬入される日が決まった。
 小堀仏具店から3人、大浦社寺建築社の4人の職人さんがやって来て、古い鐘を下ろす作業をします。
 この鐘は昭和24年に金壽堂の黄地さんが作製されたものです。聞くところによれば、その前の鐘は大東亜戦争が本格化する昭和16年頃、国家総動員法による命令があって、戦役のため供出したそうです。
 この24年製は敗戦直後の金属不足の時代に苦心して作られたものです。爾来、毎日よく活躍したものですが、だんだん音色が悪く、響きがなくなってきました。
 いろいろしらべているうちに、早鐘・強打によって金属疲労に拍車がかかり、19号台風によって鐘楼が倒壊した時、建物の下敷きになって、いよいよ音色は落ちて、鳴らなくなってしまっていました。
 去年、母が84歳で急逝し、たくさんの方々が香典をくださいました。あまりたくさん頂いたのでこれは何とか有効な使い方をしなければ、ということで「梵鐘」ということになったわけです。
 作業は吊り金具の取り付けと、3年間の慣らし期間の撞木を棕櫚の木に変える作業です。心配していたよりも順調に終わりました。

3月2日 住職記
1