2007.01.30 Tuesday
報恩講を終えて
人間は迷う。自分自身の考えから迷わされている。その自分を迷わしている考えから離れさせるはたらき、それが仏の法、すなわち「仏法」です。
なぜ聞法するか、それは自我に迷わされているからです。迷わされているときは迷っていることもわかりません。これはとても危ない状態です。
迷っていることがわからないまま、「頑張れば必ず悟れる」と思う。迷っている状態で頑張れば、迷いは倍増し、ますます迷いは深くなります。これが危ないということです。
親鸞聖人は『教行信証』の「信の巻」の序文に、このように記しています。
しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、
定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。
-真宗聖典p210-
迷っている自覚がないまま、「頑張れば必ず悟れる」と思うことの危なさに気づいていない。
すなわち「自力の行者」に対する警告です。
人間は真実に触れないかぎり、自分が迷っていることに目が覚めません。真実に遇わない者が世の中を良くしようと思っても、良くなるはずがありません。
仏法は真実を説いています。真実の法を説くのが『大無量寿経』です。この法を聞けば自分が迷っていることに目覚めることができます。自分の迷執の危なさに気づくことができるのは『大経』の真実に遇う以外にはありません。
「ただ聞いていさえすれば」救われる、というのではありません。
『大経』は真実を説いた経典である。このことを信じることがないまま、ただ聞きさえすれば・・・というのではありません。
自我に迷わされていることの恐ろしさを知るには『大経』が説く法に遇うことです。
こう云われた親鸞聖人の生涯に深く感謝できる「一人」になることが願われている。
これが「報恩講」という聞法の仏事です。
来年も再来年も、ずっと続けてゆこうと決心しています。
住職