「廃仏毀釈」についてのメモ  その5

  • 2009.03.08 Sunday
  • 01:13
▼明治以降の「神道」は創り出されたもの

 明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた。
まず儒学者の仏教批判に始まり、仏教を排し復古神道を唱える国学者がこれを受け継いだ。水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩で実行されていた。
慶応四(1868)年三月十三日、有名な「五か条の誓文」発布の前日であるが、いわゆる「神仏分離令」が布告される。

 宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開される。
ところが、その一年半前の孝明天皇の葬儀は僧侶によって執り行なわれ、泉湧寺に埋葬されていた。
皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からである。
それまで天皇葬儀への仏教関与は、実に約千二百年にわたって続いた(もっとも、玉体の火葬自体は1654年の後光明天皇のときから取り止めとなり、以後は儀礼的に火葬しての土葬に改定)。

 宮中には長らく「お黒戸」(黒戸御所)と呼ばれた言わば「仏壇」があり、そこに仏像を安置し、歴代天皇や皇后の位牌が祭られていた。
これが排されたのはようやく明治四(1871)年のことで、やがて泉湧寺に移された。
同時に泉湧寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が没収され、宮内省に移管された。また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃された。

 一方、神道神殿の整備がなされる。
明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。
かつて神祇官八神殿に奉斎され、その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。
やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、宮中三殿として今に至っている。
同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。

玉体の守護と鎮魂を司る八神。御巫(みかんなぎ)祭神八座。神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神(この「産日・ムスビ」五神は天皇の心身の神)、大宮売神・御食津神(飲食の神)、事代主神(言葉の神)。
ここには造化三神のうち天御中主神はなく、またすべてが紀記神話の神でもないことに注意。


 明治以降、皇室は常に国民生活のお手本としてあった。
それは洋装や肉食、さらには大正天皇ご成婚に始まる神前結婚まで多岐にわたる。
しかしながら、信仰生活においてはそうではない。
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