『廃仏毀釈』についてのメモ  その1

  • 2009.03.06 Friday
  • 14:19
明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

※(「毀釈(きしゃく)」は釈迦の教えをすてる意)明治初年の仏教排斥運動。1868年(慶應4年)の神仏分離令の神道国教化政策の下で、神道家などを中心に各地で寺院・仏像・仏具・仏典の破壊や僧侶の還俗強制などがおきた。(広辞苑より引用)

 日本における「廃仏毀釈」は、明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元年)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3年)の大教宣布など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。

 これは決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。

 神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急速な実施のために大混乱となった。
1871年(明治4年)ごろ嵐が収まったが、長い間回復は困難であった。

例えば、千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、すべての仏像が破壊された。現在は、修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。
なお公爵や侯爵などの華族の墓地も、仏教方式から神道方式へと強制的に変更させられた。

 王政復古の大号令のもとに明治政府は、神政政治を目指し、神道を国家統合の機関にしようと意図した。
一部の国学者主導のもと仏法は外来の宗教であるとして、それまで大きな勢力を持つ仏教勢力の財産や地位を粛清し、弱体化するように誘導した。
 
 江戸時代までは寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食・妻帯を、明治政府は「肉食妻帯勝手なるべし」と号令し、戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとした。

 また僧侶の下に置かれていた神官は政府の威をかりて、仏教の全てを否定し破壊する「廃仏毀釈」運動を起こし、混乱にまぎれて、寺院を破壊し、寺院の土地を接収した。
 また僧侶のなかには神官や兵士となるものや寺院の土地や宝物を売り逃げていくものもいた。国宝である興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、薪にされようとしていた。

 廃仏毀釈が徹底的に行われた薩摩藩では、寺院1616寺が廃寺され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。
その内の3分の1はその後軍属となったため、寺領の没収財産や人員が強兵にまわされたと言われることもある。

 国学の普及による神仏習合への不純視や江戸時代の寺社奉行による寺請制度での仏教寺院を通じた民衆管理への反発が背景にあり、政府主導による神道優位の風潮が影響した。

平田篤胤派の国学や水戸学が盛んであった地域ではとくに仏教排斥の動きが激しく、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、国家神道の発端となった。
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