2008.08.09 Saturday
長崎教区 非核非戦法要
8月9日。
『祈りの長崎』。
そんなフレーズが度々ニュースで流れるなか、長崎教務所において「非核非戦 -共に生きよ-」というテーマで法要が数少ない参詣者によって静かに厳修された。
一万・二万ともいわれる遺骨を納めた非核非戦の碑の前で勤行。その後本堂で阿弥陀経を読授。
荷葉一浩長崎教務所長は、「思うに核兵器の出現は、人間の無明の闇を露呈した知性の悲劇であります。我々は今、寂(ひそか)に「非核非戦」と呼びかけられ、「兵戈無用の世界に共に生きよ」との災死者の叫びを、この時代のただ中で能く聞き開くべきであります。今日の人間の危機は物欲の尽きることのない自我に迷わされて仏智を疑い、帰依三宝の生活を失ったことにあります。この危機に気付く時は、今を措いてありません。願わくは、相共に聞法精進して、本願のまことを聞思する御同朋御同行の僧伽が形成されんことを仏祖の威徳を讃え、敬って申し上げます。」
と、表白を読みあげた。
講師は、大谷大学客員教授・児玉暁洋師。講題は『願生浄土と戦争放棄』。
師は、自身を守る(防衛)ために他者(他国)を殺す。それが自ら(日本)をも苦しめている。この閉塞的な現代社会を超克しなければならないと語られた。十八願に依って導き出された一願の問題。それは「生死出ずべき道」として顕われている。現代は生死ではなく「殺」「生」の三悪道世界。その中で『偶無空過者能令速満足』の念仏者として生きるとはどういうことか。それは『非核非戦』の世界を共に生きることである。と語られた。
碑に刻まれた声無なき声は「ただの慰めの祈りにしてはならん」と獅子吼している。戦争の機運が高まりつつある昨今、『非核非戦』が世界に対して問うことの出来る唯一無二の言葉であり続けたいと願う。
長崎教区 通信員 亀井攝
原爆というと広島という印象があり、広島の原爆の日が終わるとメディアでも日本中でも熱が冷めてしまう印象があります。
長崎での原爆によって亡くなられた方のことを思うと、なんとも申し訳ないような気がします。
長崎でこのようなことが行われていたことを知りませんでした。
じつに地味な活動ですが、どうぞ続いて活動されることを念じております。