今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その3

  • 2008.02.04 Monday
  • 20:29
  助業と正定業

本願名号正定業/本願の名号は正定の業なり   正信偈<真宗聖典p204>

 断惑証理という考えに疑問を抱き、親鸞聖人は比叡山を下り法然聖人の元に行かれます。
その時、法然上人は観経疏を読み専修念仏を首唱してから23年が経っています。年齢は69歳。
その上人の説かれる浄土教は、”煩悩は往生の妨げにはならない”として、「煩悩をかかえていても涅槃を得ることができる」と説かれていました。
それまでの仏教はさとりを開くことが中心だったのに対して、「念仏申せば浄土に往生して仏に成る」といわれ、”一切衆生悉有仏性/一切の衆生はことごとく仏に成ってほしいと如来に願われている”ととかれていました。
 そこには生き物を殺したり、商いをしたりする者や、または武士や公家などが苦難を超える道を求めて来ていたといわれています。
そういった様々な煩悩を抱えて生きていかざるをえない人々に浄土教は広く受けいられていきました。
その法然上人の教えはただ一つ、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏して弥陀たすけられよ」ということでした。

 まさに念仏をするための念仏、つまり称名念仏中心の生活を選びとることを「正定業」とし、その修行を要とされていました。
煩悩が往生の邪魔をして念仏が出来ないようなら、持戒はしなくともよい。むしろその煩悩を友とし、師とすれよい。ということを法然上人はいわれています。
逆に煩悩を断じなければ念仏が出来ないであるようなら、持戒をもって修業すべきであるということをいわれています。
法然上人自身は、著書『選択本願念仏集』の中で持戒(戒律をたもつこと)は雑行であると書かれています。
しかし、その源空上人(法然上人)も比叡山におられた頃も、後に比叡いの山を下りられてからも自らは受戒を怠らず、生涯結婚されなませんでした。

 また、念仏をすることを勧め、その修行を助け、念仏することの意義に目覚めさせてくれるものを、「助業」といいます。
それは煩悩に悩まされる私たちであるからこそ、念仏して生きなければならないことを煩悩に教えられ、勧められる縁になるからです。
我々が日ごろお墓参りをしたりするのも、そもそも念仏の勧め、仏縁にあって念仏をすることをすすめてくれる「諸仏として先祖」として出会えているかということが大事あり、そこで念仏に出遇えないような出会いであればすべきでないと法然上人はいわれるのでしょう。
 
 
 しかし、吉水教団内の問題は、「念仏さえ称えていればどんなことも障りにはならない」として、法然上人の教えを取り違え、平気で悪事を行ったり、「煩悩を断じる必要はない」と言いふらし、かえって教団に対し無用な混乱と非難を引き起こす者もでてきました。
そういった教団内での浄土教に対する誤解や風紀の乱れなどもあり、吉水の教団は既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になったのです。

このことは、その当時だけの問題ではなく、現代を生きる私たちにも共通した問題があるように思います。
”煩悩はどんなに頑張っても消せるものではない。”ということを聞くと、逆に「なにをしてもいい」などと言ってみたり、「どうせ煩悩具足の身なのだから」といって肉や魚を食べても感謝がなかったりする。
例えば、そういった煩悩を抱えて生きざるをえない罪の深い我が身にたいして、どこまでも慚愧なく無自覚であれば、それは吉水教団が混乱に陥った状況と同じことではないでしょうか。







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