非核非戦法要 共に生きよ

8月9日は長崎で会いましょう。

<68年目の非核非戦法要厳修!>

 この法要は、たった一発の原子爆弾によっていのち奪われた人々の声なき声を聞きつつ、人間の心の闇を破ろうとする如来の大慈悲をいただく法要です。
長崎教区は原爆をご縁に長い間この法要を大切に勤めてきました。戦後の長崎教区は非核非戦とともにあったと言っても過言ではなかったといわれています。
私たち人間の心の在り方を“戦”と“核”という言葉で表現し、その心に「非」と問いつづける如来の深心を「非核非戦」としていただいてきました。
そこからたった一発の原爆によって焼かれ亡くなっていった方々が、人間という「いのちの相」は私たちに何を語りかけているのか。そのご縁を通して私たちは南無阿弥陀仏の教えをどのようにいただいていけばいいのか考えてきました。

 一般的には「非核非戦」と聞けば、戦争反対!核兵器反対!というイメージで受け取られそうなこの言葉。単にそこにとどまる言葉ではありません。
平和を求めて平和のために殺しあう。たがいに涙を流し、傷ついてもまた平和を求めて争いあう。これもまた人間ゆえの悲しみでもあります。
「戦争反対」と叫べば、その言葉によって新たな争いを生み出していくのも私たちの宿業です。「人間は互いに平和を叫びながら、銃を向けあい互いに傷つけあう存在」とある先生が言っておられました。

戦争を興すのは人間の「心」です。自身の欲望追求のために「核」を造ったのも人間の心です。自身の欲望のためにそんなものを造り出してしまう人間の心の闇(核)に「非(あらず)」といい、自身の欲望のために争いあう心に「非」と如来が叫んでいる。その大慈悲を指している言葉です。


 非核非戦の碑の中には原爆で亡くなった何万体ともいわれる引き取り手のない人たちのお骨が入っています。一発の原子爆弾によって焼かれた人々。その声なき声に耳を傾けると、「共に生きよ」との声が聞こえてくるのです。

 釈尊はこのようなことを言われています。
(要約)争いあい憎しみあう世界の中にあっても、われわれは争いあうことなく憎しみあうことなく安穏に生きよう。


コメント