罪という問題(社会的罪という視点)

ところでみなさんは現在の日本は治安がよくなっていると思いますか?
それとも悪くなっていると思いますか?
実は日本では犯罪の質こそ変わりましたが、犯罪件数そのものは減少傾向にあります。犯罪が多かった頃の約半分近くまで減っていることが警視庁の犯罪白書を見るとわかります。
しかし、その一方ではメディアの犯罪報道の激化により、犯罪率は年々減少傾向にあるにも関わらず危機意識が高まっているといわれています。その現象はオウムのサリン事件以降顕著になっています。

日本ではこの数年、死刑の判決や執行が増え、この十数年厳罰化が進行しています。
また、世界的にいうと刑務所に収容される囚人の数が多くの国々で増加し、「囚人爆発」とも呼ばれる現象がおこっています。それによって暴動や感染症の拡大などの問題が噴出し、いまや世界的な問題となっているようです。日本でも例外ではなく、刑務所の過剰収容も問題になっています。この10年間で死刑囚は2倍増に増え少年による凶悪犯罪が相次いで刑事処分の対象となる年齢は16歳から14歳へと引き下げられました。そういったことがかえって厳罰化の傾向に拍車をかけていると云われています。
それから社会的な現象として、善悪の感覚が二極化してきたことによると分析する人もいます。この善悪の二極化は、やはりオウム事件以降顕著になってきたといわれています。


一方、アメリカでは「スリーストライク制度」という法律を採用している州が多いようです。これは三回犯罪を犯せば三回目は終身刑か死刑といったような大変重い刑罰になる制度だそうです。世界でもっとも受刑者が多いアメリカは全米で230万人。いまや成人の100人に1人の割合にのぼっているそうです。アメリカで受刑者が急増したのは、いまから30年近く前。1980年代のこと、低所得者層が住む地域を中心に南米から安いクラックコカインが大量に流入したためでした。中毒者による犯罪が激増し、この頃から殺人や虐待など凶悪事件の恐ろしさをメディアが盛んに社会問題として伝えられるようになってことに由来しているとみる人もいます。
そうした煽りに呼応して「犯罪者は厳罰に処すべきだ」という世論が高まり、凶悪犯罪でなくても犯罪を3度繰り返すと厳罰に処すという「スリーストライク法」が導入されたということです。それから16年経ちましたが、減るどころか、その数はさらに70%近く増加し、今では収容人数の2倍もの受刑者であふれているそうです。それにともない刑務所内では感染症の多発や、殺人や放火、暴動に発展することも珍しくなく、刑務所の環境は悪化の一途をたどっているとききました。

ということで、現在、世界のグローバルスタンダードは犯罪者への刑罰をより厳しくする「厳罰化」の流れとなっています。
凶悪犯罪を犯した受刑者の多くは、貧困状態におかれ、経済的、家庭的に恵まれない環境で育ち、十分な教育を受けておらず、いわば犯罪を犯さなければ生きていけない状況におかれている人が多いとも言われています。そして、一度服役すると社会復帰は困難だといわれ、再就職もその多くができず、同じ犯罪を犯してまた戻ってくるといわれています。問題はそのような一度犯罪を犯した人を受け入れる社会がないということだろうとも思います。そして、その人はなぜこのような犯罪が起こるのかという根本原因の追究がまず大事なのではないでしょうか。

ヨーロッパにおいては逆に軽罰化の取り組みをしている国が多いそうです。
ノルウェーやフィンランドは厳罰化とはまったく逆の政策を取り、それによって劇的に治安がよくなり犯罪が減ったともいわれています。つまり、「厳罰化イコール治安がよくなる」とは言えず、むしろ逆のことが起こっているというのです。

こうしたなか、世界でもっとも“囚人にやさしい国”として注目されているのがノルウェー。
かつては少年犯罪は再犯率90%にまで達していたそうです。そこで1970年代後半に刑法を抜本的に見直し、犯罪者を社会から隔離するのではなく、逆に社会復帰させるために社会に出す方法が更正を行うことにしたそうです。それには「参審員」と呼ばれる一般の市民が大きな役割を果たしていて、それに選ばれれば犯罪者が置かれた社会状況や家庭状況などを理解し、厳罰を下すことに慎重になるといわれています。「参審員」を経験した一般市民の多くが、犯罪へと追い込まれていった社会的な背景を目の当たりにすることによって、問題となる状況に置かれることで「誰が犯罪をおかしてもおかしくない」「自分と犯罪者は同じ人間に過ぎない」と思い至るそうです。


このことを考えると罪を犯した者に対して厳罰をあたえることがはたして本当に社会を安寧にできる方法なのかという疑問もおこってきます。
日本人が一般的に思っていることは、犯罪をおかす人たちはとても凶暴で邪悪な人たちなんだということです。だから社会から隔離しなければいけないと思ってしまう。これが仮想敵国の論理と同じなのです。
人はみな犯罪者になりたくて生まれてくるのではありません。犯罪者がはじめから凶悪な心を持って生まれてくるわけでもなく、出来うることなら、善良で人を傷つけたりせずに幸せに行きたいと願っているものでしょう。

すべての人間は人間である。こうしたあたり前のことを人は忘れがちで、犯罪者をモンスター化してしまいがちです。人間は「環境の産物」といわれるように、環境によって人生はさまざまに違ってくるのです。個々の犯罪者の固有の素養よりも社会的な環境によるものの方が大きいということを今ひとつ考えなければなりません。


親鸞聖人の言葉で有名な言葉があります。

わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。
                  <「歎異抄13章」真宗聖典p633〜634>

といわれ、自分の日頃の行いや心がけがいいから人を殺すような犯罪をおこさないですんでいるということではない。
人は環境によっては、生きるためにどのようなことでもしてしまう”業”(ごう)というものをもっているものだ。といわれています。


戒律の疑問

1、戒律について

宗教と呼ばれるものには、信者が守るべきルールがあります。
それを戒律と呼び、宗派や宗教によっては厳しく戒められたりします。
戒律の意味は次のようになります。



・・・・・誓い、【〜しない】
・・・・・ルール、取り決め、規律【〜してはならない】

その中でも最もポピュラーな戒律が五戒(ごかい)といわれるもので、それは五つあります。
五戒の原語はパンチャ・シーラといわれ、現代流に翻訳すると『平和五原則』となります。
これを守ることによって、人間関係などを悪くしないで平和に暮らせる原則ということになります。
        
 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺しません。
          (汚い・不必要・嫌いなどといって殺す心が問題になる)

 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを取りません。
           (自然のものだからタダだから取っていいという考え方が問題)

 不邪淫(ふじゃいん)  みだらな性的関係を持ちません。  
          (ただの遊び・相手も承諾したからということは許されない)

 不妄語(ふもうご)   嘘をつきません。
          (バレなければいいという心が問題)

 不飲酒(ふおんじゅ)  酒を飲みません。
          (酒を飲んでもバレなければ、事故を起こさなければいい心の有り方が問題。)
<その他の戒律>
     不綺語(ふきご)       無駄な噂話をしません。
     不悪口(ふあっく)      乱暴な言葉を使いません。      
     不両舌(ふりょうぜつ)    他人を仲違いさせるような言葉をいいません。
     不慳貪(ふけんどん)    異常な欲を持ちません。
     不瞋恚(ふしんに)     異常な怒りを持ちません。
     不邪見(ふじゃけん)   (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

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<戒律を解く理由>
◎ 人間関係を悪くする。(僧伽を破壊する=破和合僧)
◎ 修行の妨げになる。 (煩悩が増大する)
 


例えば「バレなければ罪を犯してもいい」といってしまえば、自分の心に嘘をつくことになるから、戒(〜しない)を破ったことになる。
心の中で「あんな奴死んでしまえ」と思ったとしても、殺生戒を犯したこととなる。

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<法然上人の疑問>
この戒律の問題に法然上人は疑問を持たれます。「はたしてこれだけのことが自分にできるだろうか、それどころか煩悩を滅そうとすればするほど、煩悩は増大する」と。

ー『選択本願念仏集』による持戒持律の問題ー

もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。
(乃至)
しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり。」


現代語訳
もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破戒や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。
(中略)
阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人びとに平等の慈悲をおこして、あまねく一切を摂(おさ)め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。



<歎異抄での疑問>
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」真宗聖典p634

「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひと」はどうなるのだろうか。
そのような人々は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」身であって、罪をつくらなければ生きていくことのできない者、あるいは罪をつくってしまったものはどうなるのか。

今月の平和学習会

暖かくなってきました。
気候がいいと気分もいいですね。

しかし、気分が良い分この時期は五月病というのもあるように、物憂い時期でもあります。
人間は身体的なストレスがなくなると良いように思いますが、逆に不安になるということがあるのかもしれません。
寒かったり暑かったりする時期のほうがストレスが多いように思うのですが、かえってそのストレスをはねのけようとして活動的になります。
それを思うと、人生には平坦な道よりも壁や困難があるほうが、有意義なのもわかります。

 今日は「平和学習会」です。今回も少人数ですがとても面白い会でした。
最近の加熱する北朝鮮問題などを通して、メディアリテラシーの必要性について話しました。
最近、参加する人が少なくなってきたのでここらで一つ会の少々拡大を考えています。とはいってもそれほど大きい会にしたい訳ではではありませんが、そろそろ二年目に入ることからここでひとつ仕切り直しをしようということで、もう少し真面目に学習することも考えています。
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いくつかの覚え書きとして



7つの社会的罪     Seven Social Sins

1)理念なき政治   Politics without Principles
2)労働なき富    Wealth without Work
3)良心なき快楽   Pleasure without Conscience
4)人格なき学識   Knowledge without Character
5)道徳なき商売   Commerece without Morality
6)人間性なき科学  Science without Humanity
7)献身なき宗教   Worship without Sacrifice

<ガンジーの碑文より>

頭が痛いかぎりです。まったく。

「聞其名号 信心歓喜」

 信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、まことのこころとはもうすなり。
 また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。されば、『経』(大経)には、「聞其名号 信心歓喜」ととけり。
「その名号をきく」といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を、無名無実にきくにあらず。善知識にあいて、そのおしえをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまうという道理なり。                 <御文 1帖目15通-p776->

 さいわい横川には、かつて源信僧都という浄土教の
先覚者がおられました。

東塔や西塔が栄華をきわめ堕落したときでも、横川
だけが本来の面目をたもちつづけ、山の念仏は源信
僧都によって伝統がまもられ、ひろめられていたと
いわれています。

恵信尼さまの手紙と、『伝絵』の「楞厳横川の余流を
たたえて・・・・」とをあわせ考えてみると、横川の
首楞厳院で堂僧として、不断念仏の行をはげまれた
ことがうかがわれます。



  不断念仏というのは、仏の救いにあずかるために
道場にこもって、身はつねに阿弥陀仏のお像のまわり
をめぐり、口はつねに阿弥陀仏の名を称え、心はつねに
阿弥陀仏を念じつづけることによって、阿弥陀仏と行者
がひとつに融けあう、三昧の境地にいたることができると
いうものです。

そのためには、いっそう堅固に戒律をまもり、心を平静
にたもち、正しい智慧によって真理をさとらねば
なりませんから、その行者としての聖人は、戒律と
禅定と智慧という三学に達した聖僧として、いままで
にもまして刻苦精進されました。

こうして自分の心を清らかに静めてゆくことによって、
いつかはかならず心のなかに阿弥陀仏があらわれ、
救ってくださるにちがいないと信じられたからであります。

しかし聖人はただのいちども、救われた境地にひたることは
できませんでした。



 そこで修行のやりかたを変えて、一心不乱の称名を
説く『阿弥陀経』にもとづき、また源信僧都の『往生要集』
に示された「往生の業は念仏を本となす」の指導によって、
「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と仏の名を称え
られました。

こうして仏の名を称えて一心に救いを念じておれば、
仏はその願いにこたえて、きっと自分を救ってくださる
ものと思われたからであります。


 だが、どれほど一心不乱に念仏を称えても、救われた
よろこびの心をもつことはできなかったのです。

聖人の心には苦悩の闇が深まるばかりでありました。

くろぐろと巨大にそびえる山の端に、天を斬るような
上弦の月は光っていても、このなやみを解決して
くれる教えも人も、もはやこの比叡山には見あたらぬ
ように思われるのでした





また七高僧の一、源信僧都はこうもいわれています。

また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい 有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

                             真宗聖典 p961

今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その4

迷ったことのないものに目覚めるということはない。










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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その3

  助業と正定業

本願名号正定業/本願の名号は正定の業なり   正信偈<真宗聖典p204>

 断惑証理という考えに疑問を抱き、親鸞聖人は比叡山を下り法然聖人の元に行かれます。
その時、法然上人は観経疏を読み専修念仏を首唱してから23年が経っています。年齢は69歳。
その上人の説かれる浄土教は、”煩悩は往生の妨げにはならない”として、「煩悩をかかえていても涅槃を得ることができる」と説かれていました。
それまでの仏教はさとりを開くことが中心だったのに対して、「念仏申せば浄土に往生して仏に成る」といわれ、”一切衆生悉有仏性/一切の衆生はことごとく仏に成ってほしいと如来に願われている”ととかれていました。
 そこには生き物を殺したり、商いをしたりする者や、または武士や公家などが苦難を超える道を求めて来ていたといわれています。
そういった様々な煩悩を抱えて生きていかざるをえない人々に浄土教は広く受けいられていきました。
その法然上人の教えはただ一つ、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏して弥陀たすけられよ」ということでした。

 まさに念仏をするための念仏、つまり称名念仏中心の生活を選びとることを「正定業」とし、その修行を要とされていました。
煩悩が往生の邪魔をして念仏が出来ないようなら、持戒はしなくともよい。むしろその煩悩を友とし、師とすれよい。ということを法然上人はいわれています。
逆に煩悩を断じなければ念仏が出来ないであるようなら、持戒をもって修業すべきであるということをいわれています。
法然上人自身は、著書『選択本願念仏集』の中で持戒(戒律をたもつこと)は雑行であると書かれています。
しかし、その源空上人(法然上人)も比叡山におられた頃も、後に比叡いの山を下りられてからも自らは受戒を怠らず、生涯結婚されなませんでした。

 また、念仏をすることを勧め、その修行を助け、念仏することの意義に目覚めさせてくれるものを、「助業」といいます。
それは煩悩に悩まされる私たちであるからこそ、念仏して生きなければならないことを煩悩に教えられ、勧められる縁になるからです。
我々が日ごろお墓参りをしたりするのも、そもそも念仏の勧め、仏縁にあって念仏をすることをすすめてくれる「諸仏として先祖」として出会えているかということが大事あり、そこで念仏に出遇えないような出会いであればすべきでないと法然上人はいわれるのでしょう。
 
 
 しかし、吉水教団内の問題は、「念仏さえ称えていればどんなことも障りにはならない」として、法然上人の教えを取り違え、平気で悪事を行ったり、「煩悩を断じる必要はない」と言いふらし、かえって教団に対し無用な混乱と非難を引き起こす者もでてきました。
そういった教団内での浄土教に対する誤解や風紀の乱れなどもあり、吉水の教団は既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になったのです。

このことは、その当時だけの問題ではなく、現代を生きる私たちにも共通した問題があるように思います。
”煩悩はどんなに頑張っても消せるものではない。”ということを聞くと、逆に「なにをしてもいい」などと言ってみたり、「どうせ煩悩具足の身なのだから」といって肉や魚を食べても感謝がなかったりする。
例えば、そういった煩悩を抱えて生きざるをえない罪の深い我が身にたいして、どこまでも慚愧なく無自覚であれば、それは吉水教団が混乱に陥った状況と同じことではないでしょうか。







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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る その2

前回は親鸞聖人が比叡山での煩悩を断ずる修行についての疑問でした。

では、釈尊の修行とはどういうものだったのでしょう。
しかも、その厳しい修行をした釈尊の教えから、なぜ煩悩を断ぜずして涅槃を得ると親鸞聖人はいえたのでしょうか。

 太子(釈尊)の修行生活は六年の長期にわたった。
極端な断食をはじめとして、心を統制して呼吸を止めるなど、言語に絶する苦行を実修した。
太子の体は枯れ木のようにやせ衰え、生きた屍のようになったが、心が平静となっても、迷妄からの解脱の望みはみえてこなかった。
かくして、そういう苦行一辺倒の修行は、肉体の疲労困憊により、かえって精神の働きを朦朧とさせるだけで、精神を明晰にすることによって、迷妄を断ち切るという目的を達成しうるものではないことを悟った太子は、むしろ、肉体を健全に保つべきではないかと考え、ついに苦行をすてる決心をした。
6年の勤苦の座から、かろうじて身を起こして立ち上がった太子は、ネージャランジャラー河の流れで身を洗い、やっとの思い岸辺に見を横たえ、深い眠りに入った。折しもそこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥により、衰えた体力を回復していったのである。


                     東本願寺出版『大乗の仏道』より一部抜粋


そうして釈尊は、煩悩を断ちつくす事によって修行を完成するということの無益さを知るのです。
しかも、そこを通りかかった村の少女の捧げた乳粥によって”食べなければ生きていけない”人間の現実を教わったのかもしれません。
肉体を健全に保つには、食事を食べることが必要です。逆にいえば食事をとらなければ健全な修行も肉体も思考も成り立たないといえるのです。




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今月のテーマ/煩悩を断ぜずして涅槃を得る 1

      比叡山での修行の疑問

親鸞聖人在世のころは、釈尊入滅してすでに千年以上が経ち、すでにさとりが適わない時代、末法の時代といわれて久しかったのです。
そんな頃の比叡山での修行テーマは、「断惑証理/だんわくしょうり」といわれていました。
”人間の心は元々清浄なものである”という考えに基づき、あらゆる煩悩を断ち尽くす事によって清浄な心になり、さとりに達するといわれていました。
いわば、諸行成就の修行によって覚者となった釈尊を追体験し、釈尊と同じ悟りが得られるとしてきました。

 そのためには、それを妨げるさまざまな欲望や、深い執着に打ち勝とうとする強靭な菩提心と精神力でもって、持戒(戒律を守ること)し、そのことをより間違いなく勤め励むことが求められました。
 そのような人間の精神力に対する大きな信頼の上に、断惑証理という修行が成り立っていたのです。
しかし、いくら断っても断っても常におそってくる洪水のような煩悩の大河にいつでも押し流されないように出来るのは並大抵のことではありません。
むしろそれを断とうとすることによってさらに煩悩の焔が燃え盛るのを聖人は感じていのでしょう。
修行すればするほど、若き日の聖人は自らの凡夫性に目覚めていったのかもしれません。


インドから中国北部のシルクロードを通り、海を渡って日本に伝わった仏教は「大乗仏教」といわれ、全ての人が無条件に平等に救われる道です。
聖人は後の著書、『教行信証』の総序の文に

        難度海を度する大船        真宗聖典p149

と大乗仏教を表現されました。
人生の苦悩を海にたとえ、その苦難の海を有縁の人々と共に渡っていく大きな船であるといわれています。
しかし、大乗の根本道場といわれた比叡山では、厳しい修行に耐え、精神を磨くことがテーマでした。聖人も不断念仏をとなえる常行三昧堂の堂僧勤めをしていたといわれていますから、ずいぶん若い頃には厳しい修行をされていたようです。
その成績も山の中では優秀だったといわれています。

しかし、そういった厳しい修行が修められる者だけが仏に成れるのだとすれば、大乗の仏道は成り立たない。
まして餓えや飢饉で苦しい現実を生きなければならない人々や、海山に狩りをし、漁をする人々。食うために客にご機嫌を伺って生活を成り立たせる商人はどうして行けばよいのか。
さらに、女人禁制のこの山。不浄といわれ、仏縁を結ぶことさえ出来ないといわれる女人はどうやって救われていくのか。
そういった限られた人にのみ許される仏道修道のあり方に聖人は純粋な疑問や矛盾を感じていたのです。


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さらに続き

たとえば、親鸞聖人在世のころの比叡山では、次の人たちが入山を禁止されていました。

女性・・・・・・・三穢、もしくは修行の妨げになるもの
猟(漁)・・・・・・殺生を犯すもの
商人・・・・・・・妄語を犯すもの
罪人・・・・・・・既に罪を犯したもの
 
といった人たちで、これらの人々は、その生まれによって、職業によって、自らの行いによって戒律を守ることの出来ない者として入山が禁止されていました。

引き続き罪の問題

 この五悪・十悪(または十善戒)の戒律は、基本的な戒めとされ、これを守って、善行修行(良い行い)をつむことによって、自ら仏に成っていこう(成仏する)というものです。
善根功徳の思想は、法然上人や親鸞聖人が登場するまで、仏教の主たる修行のスタイルでした。

 大乗の菩薩道を修する最高峰、比叡山はさまざまな高僧を排出してきました。
そこでの修行は、断惑証理(だいわくしょうり)が掲げられ、
これは、人間の心は元々清浄なものであるという考えが基本にあり、修行して煩悩の誘惑を断ち切り、迷わされない仏に成っていこうというものです。
これは釈尊の修行を追体験することによって悟りを開こうという修行方です。

 現代人からすると、そんなことはナンセンスだとか、有り得ないことだとか、無理なことだと、はじめからあきらめてしまうかもしれません。

 しかし、よくよく考えると、最近、私たちを取り巻く環境や状況、さまざまな不可解な事件などが起こってくる時代背景を思えば、自分と向き合う大事な機会を安易にナンセンスだと言って切捨て、受け入れないことこそかえって時代を混迷の中に追いやる原因になっているのでしょうからあながちにナンセンスだともいえないのではないでしょうか。

私たちは欲望の赴くまま暮らしていくことが果たして本当の幸せなのかもう一度考え直さなければいけないのではないでしょうか。

 ですから、このことは初めから出来ないと諦めてしまわず、出来る限り精進する志を持つことは一つは大事なことでしょう。

しかし、それはわたしたちの生活の現実から言って完全に守りきることは
無理なことも事実です。

社会そのものがそういったことの上に成り立ってしまっている以上、やはり、ある程度、嘘をつかないと娑婆世間では生きていけないこともあります。

嘘をつけば人を傷つけてしまうし、それによって自分自身も、その罪に苛まれることもあります。
または、運が悪かったと運命論的になったりすることです。
そこで問題になるのは、その罪を罪だと思わない無自覚な人と、短絡的な諦めです。
五悪・十悪の問題は、罪の自覚の問題であり、それが守りきれる人間になることを目的としていません。
人によっては、状況によっては守ることの出来ないこともあります。
しかし、そのときに問われるのが、その罪に対して短絡的、無自覚であれば、他人や自分を傷つけていても不感症であれば、。

しかも『いましめ』なのですから、自覚の問題をいっているのです。

                              →つづく